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	<title>G.R.E.A.T. 日本支部</title>
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	<description>ジェンダー、セクシュアリティ、ジェンダーアイデンティティの問題を扱う団体</description>
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		<title>G.R.E.A.T. 日本支部</title>
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		<title>[イベント.12-7.東京] 難民・移民に生きる権利を！仮放免者に在留資格を！</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2011/12/02/praj127/</link>
		<comments>http://greatjapan.wordpress.com/2011/12/02/praj127/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 02 Dec 2011 07:27:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[告知／ニュース]]></category>
		<category><![CDATA[人種・民族]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://greatjapan.wordpress.com/?p=458</guid>
		<description><![CDATA[12.7「仮放免者に在留資格を！」デモのおしらせ（法務省入管への要求） わたしたち 難民(なんみん)・移民(いみん)は 入管(にゅうかん)による 長期収容(ちょうきしゅうよう)によって 心身(しんしん)共(とも)に ボロボロに なり、やっとのことで 仮放免許可(かりほうめんきょか)を 受(う)けました。 しかし、いつまた 収容(しゅうよう)される かも しれません。それに、仮放免(かりほうめん)に なっても 働(はたら)くことは 認(みと)められて いません。仕事(しごと)を しないで どうやって生(い)きて いけば 良(よ)いのでしょうか。 また、移動(いどう)が 制限(せいげん)されて おり、急(きゅう)に 遠(とお)くに 住(す)む 友人(ゆうじん)が 病気(びょうき)に なっても、まずは 入管(にゅうかん)に 許可(きょか)を 得(え)ないと お見舞(みま)いにも いけません。さらに、在留資格(ざいりゅうしかく)が ないため 国民健康保険(こくみんけんこうほけん)にも 加入(かにゅう)できません。 仮放免者(かりほうめんしゃ)の 生活(せいかつ)は、労働(ろうどう)できず、国民健康保険(こくみんけんこうほけん)にも 入(はい)れず、生(い)きて いく手段(しゅだん)、病気(びょうき)に なっても 治療(ちりょう)を 受(う)ける手段(しゅだん)を 奪(うば)われて います。仮放免者(かりほうめんしゃ)は 全国(ぜんこく)に 1000人から 2000人 いると 思(おも)われますが、わたしたちの 生存権(せいぞんけん)は 奪(うばわ)われて います。 [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=458&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>12.7「仮放免者に在留資格を！」デモのおしらせ（法務省入管への要求）</h3>
<blockquote><p>  わたしたち  難民(なんみん)・移民(いみん)は  入管(にゅうかん)による  長期収容(ちょうきしゅうよう)によって  心身(しんしん)共(とも)に  ボロボロに  なり、やっとのことで  仮放免許可(かりほうめんきょか)を  受(う)けました。</p>
<p>  しかし、いつまた  収容(しゅうよう)される  かも  しれません。それに、仮放免(かりほうめん)に  なっても  働(はたら)くことは  認(みと)められて  いません。仕事(しごと)を  しないで  どうやって生(い)きて  いけば  良(よ)いのでしょうか。</p></blockquote>
<p><span id="more-458"></span></p>
<blockquote><p>  また、移動(いどう)が  制限(せいげん)されて  おり、急(きゅう)に  遠(とお)くに  住(す)む  友人(ゆうじん)が  病気(びょうき)に  なっても、まずは  入管(にゅうかん)に  許可(きょか)を  得(え)ないと  お見舞(みま)いにも  いけません。さらに、在留資格(ざいりゅうしかく)が  ないため  国民健康保険(こくみんけんこうほけん)にも  加入(かにゅう)できません。</p>
<p>  仮放免者(かりほうめんしゃ)の  生活(せいかつ)は、労働(ろうどう)できず、国民健康保険(こくみんけんこうほけん)にも  入(はい)れず、生(い)きて  いく手段(しゅだん)、病気(びょうき)に  なっても  治療(ちりょう)を  受(う)ける手段(しゅだん)を  奪(うば)われて  います。仮放免者(かりほうめんしゃ)は  全国(ぜんこく)に  1000人から  2000人  いると  思(おも)われますが、わたしたちの  生存権(せいぞんけん)は  奪(うばわ)われて  います。</p>
<p>  わたしたちに生(い)きる権利(けんり)を！  在留資格(ざいりゅうしかく)を！  それを  要求(ようきゅう)して、法務省入国管理局(ほうむしょうにゅうこくかんりきょく)に  対(たい)する  行動(こうどう)を  おこないます。ぜひ、みなさん、参加(さんか)して  ください。</p>
<ul>
<li>長期収容(ちょうきしゅうよう)を  やめろ</li>
<li>再収容(さいしゅよう)を  やめろ</li>
<li>難民(なんみん)・移民(いみん)に  生(い)きる  権利(けんり)を</li>
<li>仮放免者(かりほうめんしゃ)に  在留資格(ざいりゅうしかく)を</li>
</ul>
<p>★2011年(ねん)12月(がつ)7日(なのか)（水(すい)）12時(じ)<br />
★日比谷公園(ひびやこうえん)（東京都千代田区(とうきょうとちよだく)）噴水前集合(ふんすいまえしゅうごう)</p>
<p>最寄駅(もよりえき)・<span style="color:red;">日比谷(ひびや)</span>（地下鉄(ちかてつ)）または<span style="color:red;">有楽町(ゆうらくちょう)</span>（JR）</p>
<p>※ 道(みち)が分(わ)からないひとは、11時(じ)30分(ぷん)、有楽町駅(ゆうらくちょうえき)（JR山手線(やまてせん)）日比谷口改札(ひびやぐちかいさつ)に集合(しゅうごう)</p>
<p>主催(しゅさい)　仮放免者(かりほうめんしゃ)の会(かい)　<br />
連絡先(れんらくさき)　増田(ますだ)080-3421-4060　宮廻(みやさこ)090-6547-7628</p></blockquote>
<p><a href="http://praj-praj.blogspot.com/2011/11/127.html">引用元</a></p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/458/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/458/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/458/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/458/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/458/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/458/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/458/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/458/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/458/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/458/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/458/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/458/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/458/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/458/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=458&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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			<media:title type="html">Masaki</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>クィア理論入門公開連続講座のお知らせ</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2011/10/07/queer-lecture-series-at-todai-2011/</link>
		<comments>http://greatjapan.wordpress.com/2011/10/07/queer-lecture-series-at-todai-2011/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 07 Oct 2011 06:21:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>
		<category><![CDATA[告知／ニュース]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://greatjapan.wordpress.com/?p=432</guid>
		<description><![CDATA[＊会場の変更があります。以下の情報を確認してご参加ください。 クィアという言葉は聞いたことがある、 ジェンダーやセクシュアリティをめぐる議論に興味がある、 もう少し詳しく知りたいけれど入り口が見つからない、 そういう方に向けて、 クィア理論入門の連続授業をおこないます。 昨年度とは異なる講師、異なる切り口で、すすめて参ります。 また、昨年と比べると多少ではありますが、時系列よりはテーマごとの設定になる予定です。 今年のテーマは「可視性」です。ドラァグやカミングアウトから、女性／女装ということ、さらに障害学やギャル論まで、どう繋げて行くのか、ご期待いただければと思っております。 皆様の御参加をお待ち申し上げております。 ＊講師：井芹真紀子（東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程、フェミニズム／クィア理論） ＊クィアな可視性をめぐるポリティクス 2011.10.19 イントロダクション 2011.11.02 沈黙＝死：エイズ危機とドラァグ 2011.11.16 見えない差異：フェムレズビアンとトランスセクシュアル 2011.11.30 クローゼットってなに？：パスとカミングアウト 2011.12.14 選ばないことを選ぶ：クィア障害学と特権的身体 2012.01.18 女性が女装する：ギャルの商品化とホモノーマティビティ ＊時間：水曜 19:30~21:00 ＊場所：東京大学駒場キャンパス18号館1Fメディアラボ2 4Fコラボレーションルーム1 ＊対象：10代後半以上の方 お問い合わせ先：東京大学大学院総合文化研究科 清水晶子 qstudieskomabaあっとgmail.com（「あっと」を@に変えてご利用ください） なお、この公開授業は、科学研究費補助金（基盤C）「日本におけるクィア・スタディーズの展開」〈クィアと教育〉部門の研究事業の一環として行われます。 https://plus.google.com/113292625936673729653/posts/NqJndSkwjyE<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=432&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>＊会場の変更があります。以下の情報を確認してご参加ください。</p>
<blockquote><p>クィアという言葉は聞いたことがある、<br />
ジェンダーやセクシュアリティをめぐる議論に興味がある、<br />
もう少し詳しく知りたいけれど入り口が見つからない、<br />
そういう方に向けて、<br />
クィア理論入門の連続授業をおこないます。</p></blockquote>
<p><span id="more-432"></span></p>
<blockquote><p>昨年度とは異なる講師、異なる切り口で、すすめて参ります。<br />
また、昨年と比べると多少ではありますが、時系列よりはテーマごとの設定になる予定です。</p>
<p>今年のテーマは「可視性」です。ドラァグやカミングアウトから、女性／女装ということ、さらに障害学やギャル論まで、どう繋げて行くのか、ご期待いただければと思っております。<br />
皆様の御参加をお待ち申し上げております。</p>
<p>＊講師：井芹真紀子（東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程、フェミニズム／クィア理論）</p>
<p>＊クィアな可視性をめぐるポリティクス</p>
<p>2011.10.19 イントロダクション<br />
2011.11.02 沈黙＝死：エイズ危機とドラァグ<br />
2011.11.16 見えない差異：フェムレズビアンとトランスセクシュアル<br />
2011.11.30 クローゼットってなに？：パスとカミングアウト<br />
2011.12.14 選ばないことを選ぶ：クィア障害学と特権的身体<br />
2012.01.18 女性が女装する：ギャルの商品化とホモノーマティビティ</p>
<p>＊時間：水曜 19:30~21:00</p>
<p>＊場所：東京大学駒場キャンパス18号館<del datetime="2011-11-01T07:38:54+00:00">1Fメディアラボ2</del> <b>4Fコラボレーションルーム1</b></p>
<p>＊対象：10代後半以上の方</p>
<p>お問い合わせ先：東京大学大学院総合文化研究科 清水晶子 qstudieskomabaあっとgmail.com（「あっと」を@に変えてご利用ください）</p>
<p>なお、この公開授業は、科学研究費補助金（基盤C）「日本におけるクィア・スタディーズの展開」〈クィアと教育〉部門の研究事業の一環として行われます。</p></blockquote>
<p><a href="https://plus.google.com/113292625936673729653/posts/NqJndSkwjyE">https://plus.google.com/113292625936673729653/posts/NqJndSkwjyE</a></p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/432/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/432/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/432/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/432/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/432/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/432/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/432/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/432/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/432/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/432/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/432/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/432/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/432/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/432/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=432&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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			<media:title type="html">Masaki</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>クィア研究者、アーティスト、活動家の皆さんへの公開書簡</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2011/02/24/openletterpq4bds/</link>
		<comments>http://greatjapan.wordpress.com/2011/02/24/openletterpq4bds/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Feb 2011 06:28:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>
		<category><![CDATA[人種・民族]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://greatjapan.wordpress.com/?p=408</guid>
		<description><![CDATA[クィアのみなさん、研究者・アーティスト・活動家のみなさんへ

皆さんの中にはイスラエルで行われるクィア系イベントや文化的あるいは学術的な催しに参加する予定をお持ちの方、更にはそれらの催しを支持しているかたもいるかもしれません。宗教的な理由や個人的な都合で、あるいは純粋な好奇心からイスラエルに訪問する予定がある方もいらっしゃるかもしれません。イスラエルに招かれることは心躍るすてきなことに感じられるかもしれませんが、皆さんが立場を決めて飛行機の予約をする前に、以下の公開書簡を読んでくださることを切に願います。この書簡はパレスチナ人のクィアたち、活動家たち、研究者たち、そしてアーティストたちからの、世界中のクィアたち、活動家たち、研究者たち、そしてアーティストへと差し出された公開書簡です。<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=408&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>以下は、 <a href="http://pqbds.wordpress.com/2011/02/23/an-open-letter-to-queer-academics-artists-and-activists/">Palestinian Queers for Boycott, Divestment, and Sanctions Against Israel</a> （クリックすると原文に行けます）という団体による、公開書簡です。ツイッター上のオフィシャルアカウント <a href="http://twitter.com/PQ4BDS">@PQ4BDS</a> に<a href="http://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/40626553125605376">翻訳</a>の<a href="http://twitter.com/PQ4BDS/status/40627194871025664">許可</a>を取り、以下に日本語訳を掲載します。</p>
<p>また、翻訳を仕事でやったりはしますが、今回は急だったのと、私自身個人的に和訳が苦手なので、表現に不備があったり、内容解釈に問題があるかもしれません。何か問題を発見されたら、コメント欄、あるいは<a href="http://twitter.com/cMasak/">わたしのツイッター</a>までご連絡いただけたら嬉しいです。</p>
<p>マサキ</p>
<p>&#8212;&#8211;</p>
<p>クィアのみなさん、研究者・アーティスト・活動家のみなさんへ</p>
<p>皆さんの中にはイスラエルで行われるクィア系イベントや文化的あるいは学術的な催しに参加する予定をお持ちの方、更にはそれらの催しを支持しているかたもいるかもしれません。宗教的な理由や個人的な都合で、あるいは純粋な好奇心からイスラエルに訪問する予定がある方もいらっしゃるかもしれません。イスラエルに招かれることは心躍るすてきなことに感じられるかもしれませんが、皆さんが立場を決めて飛行機の予約をする前に、以下の公開書簡を読んでくださることを切に願います。この書簡はパレスチナ人のクィアたち、活動家たち、研究者たち、そしてアーティストたちからの、世界中のクィアたち、活動家たち、研究者たち、そしてアーティストへと差し出された公開書簡です。</p>
<p>私たちは、イスラエルを訪問しようと思っている全ての人にイスラエルとパレスチナにおける人々の生活の政治的・社会的現実について知ってもらいたいと思っています。イスラエル行きの旅行のパンフレットや旅程詳細などには「占領」「パレスチナ人」「ガザ」「アパルトヘイト」「民族浄化」「ボイコット」「難民」という言葉は書いてありません。ですが、イスラエルの占領のもとで生きているパレスチナ人にとっては、それらの言葉こそがかれらの生活を左右しているのです。パレスチナ人として、そしてクィアとして、これらの言葉は私たちの歴史を左右して来ましたし、そして私たちの未来をも決定し続けるのです。</p>
<p>この難しい紛争のさなかでイスラエルをボイコットすることは、偏りすぎていることに感じられるかもしれません。まだ議論の余地があるような、意見のわかれる問題だと感じるかもしれません。そもそもこのボイコット運動が効果を持つかのどうか分からないという人もいることでしょう。この問題についての皆さんとの対話に向けて、私たちは以下に、このボイコット運動とイスラエル／パレスチナについての背景情報を用意しました。また、皆さんにはぜひとも私たちとコンタクトを取り、ボイコット運動に関して疑問に思うこと、「それはどうなの？」と思うことなどを私たちと一緒に考えて頂きたいとも思っています。私たちの目標は、全ての人がイスラエルとパレスチナについて歴史をふまえた理解を持つこと、そして全てのクィアたち、研究者たち、活動家たち、そしてアーティストたちがパレスチナの市民社会のイスラエル・ボイコット運動を支援してくださることです。</p>
<p>1. 今回のボイコット運動にしろ、文化的ボイコット・学術的ボイコットにしろ、あまり知りません。それらは何ですか？</p>
<p>２００４年４月、パレスチナの研究者及び知識人がラマラ（ヨルダン川西岸の都市）に集まり、学術的・文化的にイスラエルをボイコットする活動（the Palestinian Campaign for the Academic and Cultural Boycott of Israel [PACBI]）を開始し、国際的に広まりつつあったボイコット運動へと参入しました。同年７月には世界に向けて「ボイコットの要請」を出し、以下の点について要請しました。</p>
<p>- イスラエルの学術的・文化的組織の包括的かつ継続的なボイコットを、１９６７年にイスラエルが占領した土地（東エルサレムを含む）から立ち退くまで行うこと。<br />
- それらの土地から、全ての植民地を取り除くこと。<br />
- パレスチナ難民の権利の復活に関する全ての国連決議を遵守すること。<br />
- アパルトヘイト制度を解除すること。</p>
<p>この声明は広い支持を得て、現在までのあいだにパレスチナの学術的・文化的あるいは他の市民社会組織、労働組合、その他含め６０以上の団体によって支持されています。その中には、大学教員・職員労働組合連合（the Federation of Unions of Palestinian Universities&#8217; Professors and Employees）やヨルダン川西岸（the West Bank）のパレスチナNGOネットワーク（PNGO）も含まれています[1]。</p>
<p>[1] http://pacbi.org/etemplate.php?id=867&amp;key=What%20is%20the%20Call</p>
<p>２００５年７月９日には、パレスチナの市民の過半数が国際市民団体や良心を持つ世界中の人々に対してイスラエルの広範に渡るボイコット及び投資引き上げを呼びかけました[2]。これは、南アフリカにおいてアパルトヘイトに対抗して行われたボイコット・投資引き上げ・経済制裁運動（Boycott, Divestment, and Sactions Campaigns）の成功を受けてのものでもありました。その際の目的は、イスラエルへとメッセージを送り、イスラエルが自分たちの義務を全うし、パレスチナ人が自らの決定を下す権利を疎外出来ないものとして認識し、国際法をきちんと遵守するよう圧力をかける、というものでした。ボイコット・投資引き上げ・経済制裁運動は、１７０を超える政党、団体、労働組合、そして各種社会運動によって支持され、それらはパレスチナ人全員の過半数を超える計算になります。参加者や支持者の幅広さを考えると、この運動はイスラエルのアパルトヘイトに反対する非暴力運動の中で最も規模の大きいものです[3]。</p>
<p>[2] To read the official call: Palestinian United call for boycott, http://www.bdsmovement.net/?q=node/52</p>
<p>[3] http://www.bdsmovement.net/?q=node/159</p>
<p>その後、２０１０年７月２７日にはパレスチナのクィア活動家たちによって、全てのLGBTQI団体、世界中の団体と個人に向けて、アパルトヘイトを行っているイスラエルのボイコットをするよう、呼びかけが出されました。[4]</p>
<p>[4] http://pqbds.wordpress.com/2010/06/28/palestinian-queers-for-bds-call-upon-all-queer-groups-organizations-and-individuals-around-the-world-to-boycott-the-apartheid-state-of-israel/)</p>
<p>2. しかし私はLGBTQコミュニティと連帯しています。どうやったらクィアな人たちをボイコットすることが出来るのでしょう。</p>
<p>クィアコミュニティとして私たちは、私たちがLGBTQの戦いを支持しようとするときに既に目の前で起きている重い人権侵害に対して、注意を向けなければいけないと信じています。特に、それが抑圧、差別、アパルトヘイトを行うような国という文脈の中では。アパルトヘイトを行う国家の組織への熱心な支持や参加を行うクィア団体やグループの倫理と価値観を、疑う必要があると思うのです。人権は区分けされたり、一部の人のそれが他の人のそれよりも重要になったりしてはいけないものです。私たちパレスチナのクィアたちにとって、パレスチナの人々の権利と闘争は無視することの出来ないものです。これら２つの闘争は、私たちにとっては、並行しているのです。</p>
<p>６２年間のあいだ、イスラエルの占領と今なお拡大しているアパルトヘイト制度はパレスチナ人の基本的な人権を否定して来ました。ヨルダン川西岸（the West Bank）に住んでいるパレスチナ人は軍隊による残虐な占領（不法のイスラエル植民地、通行所、障壁の制度、そしてイスラエルの植民者のみが通ることの出来る道路などによる）のもとで生活を送っています。イスラエルの中に住んでいるパレスチナ人は日々差別的な政策の犠牲になっています。現在パレスチナ人を「ユダヤ人ではない」そして「イスラエルの二級市民である」としている法律は２５を超えます。世界中に霧散したり（in the diaspora）国連による難民キャンプにいるパレスチナ人は、そもそも国連による帰国権利を否定されています。そして、ガザにいる１８０万人以上のパレスチナ人は屋外収容所に住んでおり、不法な包囲をされています。その状況は、国際的な専門家の多くが「緩慢な集団虐殺（ジェノサイド）」と呼んでいるほどです。イスラエルの抑圧、人種主義、そして差別は、パレスチナ人クィアもパレスチナ人異性愛者も、区別してはくれません。</p>
<p>3. どのイベントをボイコットしたらいいのですか。</p>
<p>占領とアパルトヘイトが６０年以上続いた中、レバノンにおいてイスラエルの行っている戦争の悲惨な影響、２００９年のガザ侵攻、そしてボイコット・投資引き上げ・経済制裁運動の大幅な成長を受けて、イスラエル政府は古く、そして新しい「ブランド・イスラエル（Brand Israel）」という大規模なPRキャンペーンを開始しました。その目的は、イスラエルの数十年にわたる戦争犯罪を漂白し、自らを中東の唯一の民主主義的国家であると売り出すことです。</p>
<p>最近になると、漂白（whitewashing）ではなく漂ピンク（pinkwashing）もまたこのキャンペーンの重要な一部となりました。イスラエルの外務省、教育機関、国際的ジオニスト・グループ、親イスラエル・グループ、そしてイスラエルのLGBTQ団体やグループの一部は、イスラエルのLGBTQコミュニティのある程度の成功を利用し、パレスチナの社会をひどく同性愛嫌悪的だと印象づけることによって、反アラブ・イスラム嫌悪的な偏見へと迎合しようとし始めました。この漂ピンクのキャンペーンは文化的な催しを多数含み、LGBTQの団体を対象にしたイスラエルへの旅行を活発にする試みなど、様々な文化的商品が用意されました。このキャンペーンの中心的なテーマは、「イスラエルは中東における、唯一の同性愛者の安息の地であって、パレスチナ人のクィアたちが安心出来る唯一の場所だ」というものです。よって、この文脈における漂ピンクは、アパルトヘイト制度や軍による占領への支持を集めるための手段の１つであって、そしてそれは、「同性愛者の権利」の名の下に行われているのです。</p>
<p>イスラエルのLGBTQグループ、学術組織、そしてイスラエルを支持する世界中の団体の殆どは、この「ブランド・イスラエル」キャンペーンの一翼を担っているにしろそうでないにしろ、イスラエルの戦争犯罪において共犯的な支持者であり、これらの戦争犯罪を漂ピンクしようとする努力はボイコットされなければなりません。前述のPACBI、及びその全体的な決まり事に基づいて言えば、イスラエルにおける殆ど全ての文化的・学問的イベント、グループ、団体（例えば大学、美術館、映画祭など）は、そうでないと明確に証明されない限り、イスラエルの占領を継続することにおいて共犯関係を持っているのであり、ボイコットの対象であります。</p>
<p>4. 具体的にボイコットの対象を教えてください。</p>
<p>以下が例です。</p>
<p>- イスラエルの文化的・学問的組織（大学、美術館、映画祭など）：　これらは、そうでないと証明されない限りは、国家から予算を受け取っており、よって、イスラエルの占領の継続において共犯関係を持っていますので、ボイコットの対象となります。つまり、そのような組織によって、あるいはそのような組織との協力関係にある者が行う催しは、参加を避けられるべきです。<br />
- イスラエルの戦争犯罪を漂ピンクすることに積極的に加担しているグループ・団体は、ボイコットされるべきです。<br />
- 「イスラエルへの同性愛者の旅行（ツーリズム）」という目論みに加担し、テル・アビブやイスラエルの「中東の同性愛者の安息の地」としての宣伝に加担しているグループ・団体は、ボイコットされるべきです。</p>
<p>5. では、私には何ができるのですか。あなた方（PQ4BDS）はどのような手助けをしてくれますか。</p>
<p>主催者にイベントあるいは商品についての情報を提供して欲しいと要求することは、常に、真っ当なことです。例えば、協賛団体・個人は誰か。イスラエルの公的な組織や共犯関係にある組織から部分的にでも資金を調達しているか。イベントの目的とビジョンはなにか。こういった「本来知り得て当然のはず」の情報についての質問をすることで、たくさんのことが分かって来ます。</p>
<p>また、そういった質問への答えが返ってこなかったり、主催者自身も把握していなかったりしたら、主催者に「PQ4BDSに私の質問をそのまま引き継いでください」と要求しましょう。イスラエルのクィア系グループや団体はこのボイコット運動についてほとんど知りませんし、自分たちのやっていることが構造的な抑圧の一翼を担っているとは気づいていません。かれらを私たちと直接連絡させることで、あなたが必要な情報が手に入るだけではなく、ボイコット運動の重要性について、それらのグループのあいだで意識を高めることも出来るのです。</p>
<p>また、私たちはあなたが個人としてこういった活動をするにあたって、ぜひ手助けをしたいと思っています。必要な情報があれば提供しますし、関係者との連絡も取ります。ボイコットのガイドラインと照らし合わせて、イベントや商品がボイコットすべきものかどうか、あなたに連絡を差し上げます。</p>
<p>今回のボイコット運動、特にクィア系のボイコット運動に関して、どんな質問を持ったとして、「とにかくPQ4BDSに聞いてみよう」と思ってもらえたら嬉しいです。</p>
<p>質問等はこちらにお願いします<br />
pq4bds@gmail.com<br />
（翻訳者注：日本語でメールを送って理解されるかどうか分かりません。英語で送るのがベストかと思いますが、どうしても自分では難しい！という場合は、要点を絞って５行以内で書いて私に送ってもらえれば、英訳してあなたに送り返します。それをPQ4BDSに送って、返事を待ってください。返事の内容が理解出来ない場合は、まずは自分で頑張ってください。だめなら、友達や知り合いに頼んでください。mixiの翻訳関係のコミュニティに投げる手もあります。「もうだめ、ぜんっぜんムリ！他に方法無い！」ってなったら、私に送って来てくださっても構いません。内容を日本語でサラっと要約したものを書いて返信します。私のメールアドレスは chicomasak[at]gmail.com です。）</p>
<p>&#8212;&#8211;</p>
<p>公開書簡は以上です。英語の原文を読みたい方は <a href="http://pqbds.wordpress.com/2011/02/23/an-open-letter-to-queer-academics-artists-and-activists/">Palestinian Queers for Boycott, Divestment, and Sanctions Against Israel</a> をクリックしてください。</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/408/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/408/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/408/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/408/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/408/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/408/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/408/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/408/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/408/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/408/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/408/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/408/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/408/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/408/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=408&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<title>ヘテロセクシストのいる教室</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Jan 2011 12:50:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ari1980</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>

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		<description><![CDATA[　文学研究をするときにポジショナリティを問われる研究者と問われない研究者がいる。ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、大抵、どのような立場から論じているのかと問われるが、普遍的で、偏りがなく、常識的で、中立であると標榜している「普通の研究者」（正確に名づければ、ヘテロセクシストな研究者）にたいして、どのような場所から研究しているのかという問いが発せられることは少ない。今回、私は、ヘテロセクシズムという枠組みでものごとを捉える研究者を、正確に、ヘテロセクシストと名づけて、「ヘテロセクシストがいる教室」について考えてみようと思う。 　ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、多くの場合、ヘテロセクシストがいる教室の特定の椅子に座ることから学問を開始する。「ヘテロセクシストがいる教室」において、その構成員の、ジェンダーやセクシュアリティのバランスについては興味があるところではあるが、ここでは、ヘテロセクシストな研究者が、どのようにしてヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化するかについて述べたい。 　ヘテロセクシストとは、「異性愛という特定の生活様式を規範としてみなし、社会的、経済的な特権を認めるような立場に立つ人*1」と広く定義できるかと思う。「ヘテロセクシストがいる教室」では、「生殖が人類の基本的な仕事だ」という考えがまかり通っていたり、「女性差別主義」を標榜する研究者の言葉が違和感なく響いていたり、異性愛を標準的なセクシュアリティだと主張し、異性愛者というアイデンティティが自然で自明なものであると疑わないように議論が組み立てられ、時折、女性やセクシュアルマイノリティがトークンマイノリティの研究者（女性やセクシュアルマイノリティを代表して話す許可証を与えられた研究者）として徴用される。私は、そのような教室のことをさして「ヘテロセクシストがいる教室」と呼ぶ。 　「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛という規範から「逸脱」した「性、身体、欲望のあり方」について議論しようとする研究者は、抹消されるか、置き去りにされるか、攻撃されるか、特色づけられて、時には保護されたり、珍しがられたり、愛でられたり、「わたしたちとは違う人々がいるのだ」というふうに「別世界」の話として意味づけられ、「ここにもちゃんとそういう研究者がいますよ」という意味で、許可証を与えられた存在として扱われる*2。トークンマイノリティの研究者は、時には、「多様性のひとつ」として歓迎されることすらあるが、「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシストな研究者が自明視している枠組みを問うた場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、議論を遅らせる厄介者のように扱われるか、「ジェンダーやセクシュアリティについては詳しくないので」という、無知を装う戦略によって、無効な問いを発した張本人のように扱われる*3。しかし、「ジェンダー、セクシュアリティについては詳しくないので」という「度しがたいまでの無知*4」の表明には、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」が潜んでいるということは、明記しておいてよいと思う*5。「ジェンダーとセクシュアリティについては詳しくないので」という弁明には、「だってわたしは別に知らなくてもいいから」という「度しがたいまでの無知」が潜んでいることが多い。 しかし、「度しがたいまでの無知」だけではなく、「度しがたいまでの有知*6」もまた、「ヘテロセクシストがいる教室」における大きな問題のひとつであると思う。 ヘテロセクシズムへの批判的な介入をしようとする研究者にたいしてヘテロセクシストな研究者がいう決まり文句に、「ジェンダー／セクシュアリティという視点はすでに新しくない」、「ジェンダー／セクシュアリティという視点をとりいれないで行われている研究などもはやない」という物言いがある。その言葉は、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という「度しがたいまでの有知（実際には無知の変奏）」によって支えられているように思う。けれども、本当に、ジェンダー／セクシュアリティという視点は新しくないといってしまえるのだろうか？　あるいは、すでに達成された何かがあるのだろうか？　ジェンダーという言葉を手放せない研究者が存在する限り、ジェンダー／セクシュアリティという視点が目新しくない、あるいはその概念によって「おもしろい読み」を提出できないという指摘は、的外れを通り越して、恥知らずだと思うのだが、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」の変奏は往々にして、「ヘテロセクシストがいる教室」においてはまかり通る。 　多くの場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、ヘテロセクシストがいる教室に座ることから研究を開始する。そうして、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」が交叉する渦中で研究をはじめることになる。しかし、ひとつつけ加えておくべきことは、ヘテロセクシズムに対して批判的な介入を行おうとする研究者自身もまた、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」がせめぎあう中で、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」と思い込んでいることがあるということだ。知っていると思い込んでいたことを実際には知らなかったり、知っているはずだと思い込んでいることを実際には共有できていなかったりということは、十分にありうる。その際に、「わたしは十分に知らないから、知りたい」と明言することは、「ヘテロセクシストがいる教室」でのひとつの重要な立場表明となりうるだろう。だから、わたしは、はっきりと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしているということを示すし、あなたのことをヘテロセクシストだと名づけて（あたし結構怖いことをしてる）議論をはじめる。 （注） *1：ジェイン・ピルチャー・イメルダ・ウィラハン著『ジェンダー・スタディーズ』片山亜紀訳者代表、新曜社、83。「ヘテロセクシズム」についてさらに詳しく知りたい方は、竹村和子「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜」『愛について』、2002、岩波書店と、「「資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない」のか」上野千鶴子編『構築主義とは何か』、2001、勁草書房を参照。 *2：ヘテロセクシストな研究者は、ジェンダーやセクシュアリティの話になると、急に女性やセクシュアルマイノリティに話をふることが多い。男性を補うために女性に語らせ、異性愛を補強するためにセクシュアルマイノリティの存在を際だたせようとする戦略をとるようだ。しかし、その場合、「性の多様性」という言葉で、教室にいる、女性やセクシュアルマイノリティの研究者の存在が、ヘテロセクシストな研究者の「ものの見え方」の中で、見たいようにな可視化されるという事態が生じることがある。特に、ヘテロセクシストな研究者が、女性やセクシュアルマイノリティの歴史について一通り知っており、フェミニズムやクィア理論の概念や理念について知悉しているときに起こりがちなのは、目の前のひとりの研究者の存在はかえりみられず、ここにもちゃんと女性の研究者がおり、セクシュアルマイノリティの研究者もいますよというように「戯画化」されるという事態だ。そこにいるだけで、あとは喋らないか、望むべき女性、望むべきセクシュアルマイノリティとして話すはずだったトークンマイノリティの研究者が、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛の規範を侵犯するかもしれないとみなされたりする場合、「性の多様性」なんてあったかしらというような勢いで、主要な議論から逸脱している厄介者という烙印が押される。 *3：ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者が感じる困難のひとつに、「ジェンダーとは何か」、「セクシュアリティとは何か」という前提について話していると、いつのまにか持ち時間が終わっており、主要な議論を押しとどめようとする厄介な人という評価が下されているということがあるのではないかと思う。ジェンダーやセクシュアリティについての定義や歴史的な経緯などについて十分に話す訓練を積み、実際に議論の場数を踏んでいる研究者であったとしても、知らないでいたいヘテロセクシストな研究者が聞く耳を持たなかったり、「わたしはもう十分に知っている」という「度しがたいまでの有知」を示した場合、どれだけ話しても聞かれないという事態が生じる。「度しがたいまでの無知」は、たやすく、「もう十分に知っているから知らなくてもよい」という「度しがたいまでの有知」と共謀して、それ以上、話すなと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化する。 *4：この言葉自体は、岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』、2000、青土社、132。 *5：イヴ・コゾフスキー・セジウィック『クローゼットの認識論』外岡尚美訳、1999、青土社、15,16。セジウィックは、「無知の複数化・特定化」の必要性についても述べている。 *6：この言葉自体は、宮地尚子『環状島＝トラウマの地政学』、2007、みすず書房、144。 （地下室のアーカイブスより転載http://d.hatena.ne.jp/ari1980/20101108）<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=402&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　文学研究をするときにポジショナリティを問われる研究者と問われない研究者がいる。ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、大抵、どのような立場から論じているのかと問われるが、普遍的で、偏りがなく、常識的で、中立であると標榜している「普通の研究者」（正確に名づければ、ヘテロセクシストな研究者）にたいして、どのような場所から研究しているのかという問いが発せられることは少ない。今回、私は、ヘテロセクシズムという枠組みでものごとを捉える研究者を、正確に、ヘテロセクシストと名づけて、「ヘテロセクシストがいる教室」について考えてみようと思う。<br />
<span id="more-402"></span><br />
　ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、多くの場合、ヘテロセクシストがいる教室の特定の椅子に座ることから学問を開始する。「ヘテロセクシストがいる教室」において、その構成員の、ジェンダーやセクシュアリティのバランスについては興味があるところではあるが、ここでは、ヘテロセクシストな研究者が、どのようにしてヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化するかについて述べたい。</p>
<p>　ヘテロセクシストとは、「異性愛という特定の生活様式を規範としてみなし、社会的、経済的な特権を認めるような立場に立つ人*1」と広く定義できるかと思う。「ヘテロセクシストがいる教室」では、「生殖が人類の基本的な仕事だ」という考えがまかり通っていたり、「女性差別主義」を標榜する研究者の言葉が違和感なく響いていたり、異性愛を標準的なセクシュアリティだと主張し、異性愛者というアイデンティティが自然で自明なものであると疑わないように議論が組み立てられ、時折、女性やセクシュアルマイノリティがトークンマイノリティの研究者（女性やセクシュアルマイノリティを代表して話す許可証を与えられた研究者）として徴用される。私は、そのような教室のことをさして「ヘテロセクシストがいる教室」と呼ぶ。</p>
<p>　「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛という規範から「逸脱」した「性、身体、欲望のあり方」について議論しようとする研究者は、抹消されるか、置き去りにされるか、攻撃されるか、特色づけられて、時には保護されたり、珍しがられたり、愛でられたり、「わたしたちとは違う人々がいるのだ」というふうに「別世界」の話として意味づけられ、「ここにもちゃんとそういう研究者がいますよ」という意味で、許可証を与えられた存在として扱われる*2。トークンマイノリティの研究者は、時には、「多様性のひとつ」として歓迎されることすらあるが、「ヘテロセクシストがいる教室」において、ヘテロセクシストな研究者が自明視している枠組みを問うた場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、議論を遅らせる厄介者のように扱われるか、「ジェンダーやセクシュアリティについては詳しくないので」という、無知を装う戦略によって、無効な問いを発した張本人のように扱われる*3。しかし、「ジェンダー、セクシュアリティについては詳しくないので」という「度しがたいまでの無知*4」の表明には、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」が潜んでいるということは、明記しておいてよいと思う*5。「ジェンダーとセクシュアリティについては詳しくないので」という弁明には、「だってわたしは別に知らなくてもいいから」という「度しがたいまでの無知」が潜んでいることが多い。</p>
<p>しかし、「度しがたいまでの無知」だけではなく、「度しがたいまでの有知*6」もまた、「ヘテロセクシストがいる教室」における大きな問題のひとつであると思う。</p>
<p>ヘテロセクシズムへの批判的な介入をしようとする研究者にたいしてヘテロセクシストな研究者がいう決まり文句に、「ジェンダー／セクシュアリティという視点はすでに新しくない」、「ジェンダー／セクシュアリティという視点をとりいれないで行われている研究などもはやない」という物言いがある。その言葉は、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という「度しがたいまでの有知（実際には無知の変奏）」によって支えられているように思う。けれども、本当に、ジェンダー／セクシュアリティという視点は新しくないといってしまえるのだろうか？　あるいは、すでに達成された何かがあるのだろうか？　ジェンダーという言葉を手放せない研究者が存在する限り、ジェンダー／セクシュアリティという視点が目新しくない、あるいはその概念によって「おもしろい読み」を提出できないという指摘は、的外れを通り越して、恥知らずだと思うのだが、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」という、「知らなくてもいいという権力」と「知らないでいることの特権」の変奏は往々にして、「ヘテロセクシストがいる教室」においてはまかり通る。</p>
<p>　多くの場合、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者は、ヘテロセクシストがいる教室に座ることから研究を開始する。そうして、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」が交叉する渦中で研究をはじめることになる。しかし、ひとつつけ加えておくべきことは、ヘテロセクシズムに対して批判的な介入を行おうとする研究者自身もまた、「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」がせめぎあう中で、「だってわたしはもう十分に知っているから、知らなくてもいい」と思い込んでいることがあるということだ。知っていると思い込んでいたことを実際には知らなかったり、知っているはずだと思い込んでいることを実際には共有できていなかったりということは、十分にありうる。その際に、「わたしは十分に知らないから、知りたい」と明言することは、「ヘテロセクシストがいる教室」でのひとつの重要な立場表明となりうるだろう。だから、わたしは、はっきりと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしているということを示すし、あなたのことをヘテロセクシストだと名づけて（あたし結構怖いことをしてる）議論をはじめる。</p>
<p>（注）<br />
*1：ジェイン・ピルチャー・イメルダ・ウィラハン著『ジェンダー・スタディーズ』片山亜紀訳者代表、新曜社、83。「ヘテロセクシズム」についてさらに詳しく知りたい方は、竹村和子「〔ヘテロ〕セクシズムの系譜」『愛について』、2002、岩波書店と、「「資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない」のか」上野千鶴子編『構築主義とは何か』、2001、勁草書房を参照。</p>
<p>*2：ヘテロセクシストな研究者は、ジェンダーやセクシュアリティの話になると、急に女性やセクシュアルマイノリティに話をふることが多い。男性を補うために女性に語らせ、異性愛を補強するためにセクシュアルマイノリティの存在を際だたせようとする戦略をとるようだ。しかし、その場合、「性の多様性」という言葉で、教室にいる、女性やセクシュアルマイノリティの研究者の存在が、ヘテロセクシストな研究者の「ものの見え方」の中で、見たいようにな可視化されるという事態が生じることがある。特に、ヘテロセクシストな研究者が、女性やセクシュアルマイノリティの歴史について一通り知っており、フェミニズムやクィア理論の概念や理念について知悉しているときに起こりがちなのは、目の前のひとりの研究者の存在はかえりみられず、ここにもちゃんと女性の研究者がおり、セクシュアルマイノリティの研究者もいますよというように「戯画化」されるという事態だ。そこにいるだけで、あとは喋らないか、望むべき女性、望むべきセクシュアルマイノリティとして話すはずだったトークンマイノリティの研究者が、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとしたり、異性愛の規範を侵犯するかもしれないとみなされたりする場合、「性の多様性」なんてあったかしらというような勢いで、主要な議論から逸脱している厄介者という烙印が押される。</p>
<p>*3：ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者が感じる困難のひとつに、「ジェンダーとは何か」、「セクシュアリティとは何か」という前提について話していると、いつのまにか持ち時間が終わっており、主要な議論を押しとどめようとする厄介な人という評価が下されているということがあるのではないかと思う。ジェンダーやセクシュアリティについての定義や歴史的な経緯などについて十分に話す訓練を積み、実際に議論の場数を踏んでいる研究者であったとしても、知らないでいたいヘテロセクシストな研究者が聞く耳を持たなかったり、「わたしはもう十分に知っている」という「度しがたいまでの有知」を示した場合、どれだけ話しても聞かれないという事態が生じる。「度しがたいまでの無知」は、たやすく、「もう十分に知っているから知らなくてもよい」という「度しがたいまでの有知」と共謀して、それ以上、話すなと、ヘテロセクシズムに批判的に介入しようとする研究者の言葉を無化する。</p>
<p>*4：この言葉自体は、岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』、2000、青土社、132。</p>
<p>*5：イヴ・コゾフスキー・セジウィック『クローゼットの認識論』外岡尚美訳、1999、青土社、15,16。セジウィックは、「無知の複数化・特定化」の必要性についても述べている。</p>
<p>*6：この言葉自体は、宮地尚子『環状島＝トラウマの地政学』、2007、みすず書房、144。</p>
<p>（地下室のアーカイブスより転載http://d.hatena.ne.jp/ari1980/20101108）</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/402/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/402/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/402/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/402/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/402/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/402/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/402/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/402/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/402/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/402/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/402/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/402/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/402/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/402/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=402&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>ドイツの団体によるジュディス・バトラーのインタビュー（和訳）</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2010/07/12/aviva_interviews_butler/</link>
		<comments>http://greatjapan.wordpress.com/2010/07/12/aviva_interviews_butler/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 12 Jul 2010 05:38:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>
		<category><![CDATA[フェミニズム]]></category>
		<category><![CDATA[告知／ニュース]]></category>

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		<description><![CDATA[１９５６年オハイオ州クレヴァランドに生まれたジュディス・バトラー。彼女を知らない人などいるだろうか。『ジェンダー・トラブル』の出版以来彼女は、彼女の理論、とりわけジェンダーのパフォーマティヴィティの理論によって国際的に知れ渡った。フェミニズム、クィア理論及び政治哲学という、その内部で彼女自身が熱心な活動家かつブッシュ政権下のアメリカの戦争政治の批判者であるような分野に、彼女の研究は貢献している。特にドイツにおいては、ジェンダーに関わるバトラーの理論を受け入れることは非常に物議を醸し出し、フェミニズムにおいて活発な議論を引き起こした。彼女の最近の研究は、人種主義や侵略に反対し平等を求めること、ユダヤ哲学、そして国家暴力の批判を主にしている。ベルリンパレード (Berlin CSD) のあとすぐにベルリンを発ってしまったので我々は直接バトラーと話をすることが出来なかったが、バトラーが私たちのEメールにおける質問——人種主義とベルリンパレード、最近の彼女の政治的発言、近代フェミニズムが直面する問題、そしてユダヤ系の出自がどのような重要性を持っているのかについて——に回答する時間をかけてくれたことを喜んでいる。<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=386&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ベルリンのパレードについて、著作と理論について、レズビアンという名前について、アイデンティティについて、被傷性について、ユダヤ系出自について、非暴力について、主体論とヘーゲルについて、という、お腹いっぱい！なインタビューです。インタビューしている側の発言に時々ボクが理解出来ない表現があるので、コメントか <a href="http://twitter.com/aHomoAznMButch/">Twitter</a> で助言頂けたら助かります。</p>
<p><a href="http://www.aviva-berlin.de/aviva/content_Interviews.php?id=1427323">ジュディス・バトラー　インタビュー</a>　←クリックで原文に飛べます</p>
<p>１９５６年オハイオ州クレヴァランドに生まれたジュディス・バトラー。彼女を知らない人などいるだろうか。『ジェンダー・トラブル』の出版以来彼女は、彼女の理論、とりわけジェンダーのパフォーマティヴィティの理論によって国際的に知れ渡った。フェミニズム、クィア理論及び政治哲学という、その内部で彼女自身が熱心な活動家かつブッシュ政権下のアメリカの戦争政治の批判者であるような分野に、彼女の研究は貢献している。特にドイツにおいては、ジェンダーに関わるバトラーの理論を受け入れることは非常に物議を醸し出し、フェミニズムにおいて活発な議論を引き起こした。彼女の最近の研究は、人種主義や侵略に反対し平等を求めること、ユダヤ哲学、そして国家暴力の批判を主にしている。ベルリンパレード (Berlin CSD) のあとすぐにベルリンを発ってしまったので我々は直接バトラーと話をすることが出来なかったが、バトラーが私たちのEメールにおける質問——人種主義とベルリンパレード、最近の彼女の政治的発言、近代フェミニズムが直面する問題、そしてユダヤ系の出自がどのような重要性を持っているのかについて——に回答する時間をかけてくれたことを喜んでいる。</p>
<h3>パレードとジェンダー</h3>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> ベルリンパレードでは受賞を拒否されましたが、もし６月２６日に行われる the alternative CSD (訳者注：人種主義など複合差別の問題に取り組んでいる団体が協力している、ベルリンパレードとは異なるパレード主催団体) から同様の賞がオファーされていたら、受賞を受け入れたでしょうか？<br />
<b>Judith Butler:</b> はい、恐らくそうしていたと思います！　とにかく、私自身ベルリンにおける政治的状況を理解するのが遅かったことが悔やまれます。というのも、到着したときは受賞を受け入れるつもりでいたので、私に受賞を受け入れないようにと言うヨーロッパ中の人々や団体の数に相当驚いたのです。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> ２０１０年のベルリンパレードの主催者たちのことを二重差別が見えていない、人種主義的発言から距離を置いていない、そしてイベントそのものが表面的なものになっているとして批判しましたね。これらの問題が、あなたのおかげで目に見えるようになったと思います。具体的にどういう問題について言っていたのか、教えていただけますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 「表面的」という言葉は使っていません。パレード開催を手伝った誰かが「私が言った」と言ったのかと思います。問題は、イベントが表面的であったことではなく、北アフリカ・トルコ・アラブ系国家の人々を自分たちよりも近代的ではない、あるいはより原始的である人々と言うような非常に強い反移民言説に参加している団体や個人に、このパレードが関係を持っているということです。同性愛嫌悪は至る所で見つかると思いますし、それは宗教的・人種的マイノリティの中にも見つかるでしょう。ですが、もし私たちが他のマイノリティの偏見を助長したり品位を下げることによって同性愛嫌悪に対抗してしまったら、私たちは非常に深刻な間違いを犯すことになります。私としては、同性愛嫌悪に対抗することは、人種主義に対抗することと関係していますし、支配下に置かれたマイノリティは協同して活動する道を探す必要があると思います。ですから、このパレードの協同団体のリストに、人種主義と同性愛嫌悪に対抗している様々な団体の名前が挙がっていないことが、気になったのです。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> 自己弁護のために主催者は、あなたのスケジュールがタイトだったために、パレード中およびパレード前に行われた差別に対抗する活動の全てを知ることが出来なかったのだと言っています。であれば、主催者たちがどこで公的に倫理的勇気を示すことが出来ていたと考えますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> このパレードの中にも様々な差別への対抗を示そうとした団体や人々がいたことは、疑っていません。ですが Jan Feddersen や Rudolph Kampe などの指揮をとる側の多くは、新しい移民のコミュニティを悪魔扱いし、反移民政治的なゲイ政治とくっつき、現代ヨーロッパにおける人種的・宗教的多様性を拒絶することにおいて、強力でした。中には非常に問題含みのものがあり、例えば Maneo というグループのやり方です。パレードは、人種主義を推進するような団体との連携をまず拒否する必要があるでしょう。あるマイノリティ集団の支配を乗り越えるために他の集団の支配を強めることは、理解に苦しみます。特に、移民コミュニティの中にいるクィア、トランス、ゲイ、レズビアン、バイの人々の重要性を考えれば、更になおさら、でしょう。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> ベルリンに到着する前は、受賞を拒否する可能性があるとは思っていましたか？<br />
<b>Judith Butler:</b> いいえ。行くのを楽しみにしていましたし、イベントそのものについても非常に熱心でした。ベルリンの、そしてドイツ・ベルギー・イギリス・オランダ・フランス・アメリカの多くの人々が受賞しないで欲しいと言ってきたときは、驚いたのです。政治的な分断がベルリンのコミュニティにはあり、それはこのパレード及び他の大きなゲイ・レズビアン組織によってより直接的かつ生産的に指摘されるべき問題であると思いました。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> ベルリンパレードはどのようにしてもっと政治的なものになれるでしょうか。また、ベルリンにおけるパレードが、このベルリンパレードと Kreuzberg で行われる the alternative CSD の２つに分かれていることについて、どう思いますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 以前は、どちらにも行く人が結構いるんじゃないかと思っていました。ですが実際には人種主義や新しい移民コミュニティへの敵視に対して強い反対姿勢を取っていないベルリンパレードに行かない人が結構いるということまでは考えていなかったです。恐らく問題は「どのようにして政治的なものになれるか」ではなく、どのような政治をベルリンパレードが行って行くかということかと思います。もし主流のゲイ運動が血統の純粋さのヨーロッパ文化的規範に寄り添い続けるなら、あるいはもしマイノリティの公平な権利をオープンに肯定しないのであれば、マイノリティ集団出身だったり反人種主義の活動を自らの政治性の重要な一部であると認識している様々な活動家とのあいだには、対立が存在し続けることになるでしょう。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> Cristopher Street Day (訳者注：パレードの日) はあなたにとってどんなものですか。<br />
<b>Judith Butler:</b> Christopher 通りというのはニューヨークの、有名なストーンウォールでの抵抗が数十年前に起きた場所ですよね。それは私にとっては、警察の暴力や嫌がらせに対しての抵抗が起きた場所の名前です。実際に街に出て、公的な空間への参入を申し立て、恐怖を乗り越え、誇りを口に出し、他人を傷つけないやりかたで快楽を得る権利を行使することは重要なことです。これらは重要な理想であり、壮麗な表現と楽しさは私も好きです。ですがもし現状で暴力に対抗する方法を真剣に自らに問うなら、新しい移民コミュニティがいかに右翼的な街頭暴力、警察による人種プロファイリングや嫌がらせに晒されているかを考えなければいけませんし、全てのマイノリティに対する嫌がらせや暴力に意義を唱えなければなりません。国家による不当な暴力や文化的な病理化のやり方に対して対抗することは、より一般的に言ってもクィア運動に欠かせないものであります。<del datetime="2010-07-13T18:55:10+00:00">ですからもし街を同性愛者が闊歩する権利を求めて戦うというのであれば、反移民の暴力によって同様に危険にさらされているとても多くの人々の存在にまず目を向けなければいけません (英語ではこういう状況を &#8220;double jeopardy&#8221; と言います)。</del><strong>同性愛者が街を自由に歩く権利を求めて闘うのであれば、まず、その同性愛者のうちの相当数の人々が反移民的な暴力によっても危険に晒されていることを、自覚しなくてはなりません。これを英語では「二重の危機」と呼んでいます。</strong> (<a href="http://twitter.com/tummygrrl/status/18442884948">tummygrrl さんによる訳</a>) <del datetime="2010-07-13T18:55:10+00:00">次に、あるコミュニティに対しての不当な支配的暴力に対抗する際に、その他のコミュニティにおける不当な支配的暴力との関係性があるからといって目をつぶることはできないのだと考えるべきです。</del><strong>次に、一つのコミュニティーに対する不当な支配的暴力に異議を唱えるのであれば、他のコミュニティーに対する同じ暴力を見逃すわけにはいかない、という事を考えなくてはなりません。</strong> (<a href="http://twitter.com/tummygrrl/status/18442911259">tummygrrl さんによる訳</a>) このようにして、クィア運動は社会的平等に関与するべきであり、社会的平等を条件とした上での自由の追求をするべきです。これは個人の自由のみを気にして警察や国家の権力と寄り添うような、そして国家主義の新しい形やヨーロッパ純粋主義的かつ軍事主義的なものを含んだ新リバタリアニズムとは大きく異なります。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> あなたの哲学はしばしば大衆文化の一部であるとみなされます。実際特にドイツでは多くの人はあなたの『ジェンダー・トラブル』と「バトラー」という名前を、ジェンダーを自由に「選択」し「創造」することとつなげて考えています。しかしあなたの理論は実際には歓喜に満ちたようなものではないし、むしろメランコリーや、あらゆる差別に対抗する政治的関与について語っています。大衆偶像 (原文： &#8220;pop icon&#8221;) のように扱われていることについては、どのようにお考えですか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 大衆偶像であるかどうか、私自身はよく分かりません。そのような感想を読まないので。ただもし『ジェンダー・トラブル』の議論は大衆文化の領域に届いたのだとすれば、私は嬉しいです。学術的な活動がより大きな社会運動の一部となりうるのは、大衆的な形を取るときだけであるように感じます。あなたが言ったような誤解というのは非常に興味深いですし、文章そのものよりも読者の側の社会的なニーズについて教えてくれると思います。いずれにしても、私はこれまで、社会的な規範によってある程度みんな形作られてはいるけれど、必ずしもそれだけに決定されているわけではないということを示そうとしてきました。規範とともに、規範を通して、あるいは規範に反して私たちは奮闘するわけで、社会的権力のさなかのエージェンシーを理解しようとした私の本に、正にその理由で惹かれた人もいたのだろうと思います。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> ARTE-TV のドキュメンタリーで、レズビアンであることを意識したことで不安定になった、病理化やレズビアンのイメージ、社会的排除を恐れるようになったと言っていましたね。それから４０年経ったいま、カミングアウトをしてオープンに非ヘテロ規範的に生きることはより容易になったと思いますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> はい、そう思います。そしてそれを感じることは喜ばしいし、驚きでもあります。しかし若者のときに社会運動が無い中でカミングアウトした私たちのような人にとっては、その時代の傷を未だに引きずっているのも事実です。もうこれ以上「アウト」することなど出来ないくらいにオープンになった今でも、未だに取り憑かれているような気持ちがあります。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b>あなたの哲学によれば、ジェンダーに関係ないものも含め、アイデンティティは常に傷つきやすく、安定していないものですよね。多くの人にとってこれは理解ができない、あるいは不自然だったり恐ろしかったりするものですが、このような考えに対してあなたはどう反応しますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> ここで問題になっているのは、ある１つの考えではなく、複数かと思います。確かに多くの人はアイデンティティのカテゴリーの安定性を求めていますし、自分がどの性別なのかを知りたい、あるいはどのような性的指向を持っているのか知りたいと思っています。そしてそれが安定した、持続するような人生の一部であって欲しいと思っています。それはもちろん理解できることです。しかし、また他の人は、ある種の関係性を持てる、時間とともに変化できると思いたい人もいて、あるカテゴリーに属すると確信を持って言えるわけではなかったりします。安定性や所属というものがまっとうに生きるために必要な条件となっている人がいる一方で、むしろその安定性と所属が罠や牢獄、あるいは生きているという実感の終了であるかのように感じる人々もいるのです。ですから恐らくこれは非常に複雑な状況であります。更に、私たちに手の届くカテゴリーというもの自体も変化しており、歴史的です。そしてある性別を自認したと思っても、実際にはその性別に所属しているとは一般に思われないということを知るはめになったり、承認を得るためには社会的な争いに関与しなければならないということを知る羽目になったりします。そうでない場合は、むしろ明らかな承認無しに生きることそのものが自由のあり方であるようなこともあります。ですから恐らく私たちは、ジェンダー化・性的な人生のありかたの複雑さを理解するための、より広い考え方を発展させる必要があります。<br />
　被傷性についてですが、「男の子」あるいは「女の子」と名付けられることにおいて、他人が私たちを記述するために使う言語に対して私たちが被傷性を持っていることは明らかであるように思います。他者に名付けられることによって私たちは世界に参入させられ、その一次的な被傷性は私たちが自らを名付ける力を得る前にそこにあるのです。他者による社会的呼びかけを逃れることはありうるのでしょうか。社会的な印付けを逃れることはあるのでしょうか。あるいは、選んだことのない印の痕跡とともに、あるいはそれに反してもがいているのでしょうか。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> 他のフェミニストとは異なり、あなたは女性の被傷性を「被害者」として話したりはせず、むしろ行動する可能性を強調しますよね。近代のフェミニズムにとってそれはどのような意味を持っているのでしょうか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 現代のフェミニズムは恐らく、国家の文脈の外側で政治的行動を起こせるのか、起こすべきなのか、あるいは社会に変化を起こすには国家的・法的な組織を必要としているのか、というところで分割している状態だと思います。私の初期の議論はジェンダーを実践し変化させるような文化的な行動・実践に注目していましたが、今と同様に当時もまた、結局拘束的なやり方で女性を定義してしまうような国家権力のあり方と手を組むことに危惧を持っていました。これはもちろん、「被害者」言説の１つの問題です。もちろん一方ではいつどのようにして人々が被害をうけるのかということを理解出来るようにならなければなりませんが、しかしそこで被害者と定義付けられる人は、どのようにして自ら行動出来るのでしょうか。被害者であると法的に認められてしまえば、抵抗・抗争・エージェンシーのありかたを理解するのは困難になります。フェミニズムはジェンダー的な暴力のあり方を記述し、反対しなければなりませんが、しかし同時に女性がどのように抵抗し、戦い、彼女たちの世界を変化させるのかを示す必要もあります。両方をやって、私たちが採用する戦略が果たして私たちのエージェンシーを拡張するのか否かを自らに問わなければなりません。</p>
<h3>ユダヤ系の人生／出自</h3>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> あなたは宗教的実践をしているユダヤ人家族の元で育ち、ラビ (原文：&#8221;Rabbi&#8221;、訳者注：ユダヤ教系の指導者) の個人指導を１４歳で受けています。 Bat Mitzvah (訳者注：ユダヤ系の少女の成人式、１２〜１３歳に行う) はやりましたか。また、ユダヤ系のアイデンティティは現在どのような意味を持っていますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 当時は私の行っていた礼拝堂では女子に Bat Mitzvah をやっていなかったんです。もし出来るのならやっていたと思いますけれどね。近所の礼拝堂で授業を受け、ユダヤ系の倫理、ユダヤ人やその他マイノリティに対するナチの迫害の歴史などについて議論し、ユダヤ系の哲学を読み、実存主義的神学の伝統に非常に興味を持つようになりました。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> あなたの日々の生活、大学での仕事、言語の使用、フェミニストとしてあるいはクィア活動家として、またレズビアンの政治哲学者としての人生に、ユダヤ系であることはどのように影響を持っていますか。何か役割を担ってはいるのでしょうか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 大きな役割を担っていると確信していますが、それがどのように私に影響を与えるのか、全てを私自身が知ることは出来ないかもしれません。笑いや皮肉のセンスにおいては明らかに影響うけてますけれどね！　でもまた同時に、精読の方法のいくつかは、ユダヤ教の聖書注釈の伝統から影響を受けているとは感じますし、神的なものの概念を定義あるいは描写しようとする努力にはあまり説得されません。宗教的な問題については私は恐らく不可知論者なのかと思います。しかし時々今でも礼拝堂に行きますし、音楽は素晴らしくて感動的だと感じますね。<br />
　最近は、ユダヤ系の哲学と一般に言われるものの中にある資料を理解することで、国家暴力の批評、共生の理想、非ユダヤ人に対しての倫理的関係、そして記憶と復元の問題について考えようとしています。また、第二次世界大戦の前も後もユダヤ人の生活の重要な一部であった、シオニズムについての議論にも興味を持っています。ハンナ・アーレントの、特にパレスチナに連邦権威を設立しようとする彼女の努力や、ユダヤ系のナショナリズムを含めて全てのナショナリズムのあり方に反対する部分が私にとって重要であると分かってきました。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> ハマスとヒズボラを進歩的な社会運動であるとしたあなたの発言に関して、反ユダヤ的な立場を取ったと言われていますが、それについてはどう感じていますか (http://radicalarchives.org/2010/03/28/jbutler-on-hamas-hezbollah-israel-lobby/) 。個人的にというよりは、哲学者として腹立たしく思ってはいますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 残念ながらそのクリップはカットされていて、私の反応の全てを示してはいません。私が言ったのは、ハマスやヒズボラのような団体は左翼運動であると記述されるべきだけれど、他のすべての左翼運動のように、各人がそれぞれどの団体を支持し、どの団体への支持を拒否するか選ばなければならないということでした。かれらは植民地主義や帝国主義に反対する点で「左翼」的ですが、かれらの戦略はわたしが容認できるものではありません。どちらの団体も私は支持していませんし、非暴力の政治に公的に関与している者として、支持することは不可能なことです。私の反応の編集が私の考えを歪曲して伝えようという努力であったことは明らかですし、その歪曲が出まわってしまったことはとても残念に思います。実際に言ったこと、これまでいつも考えていたことをきちんと伝える機会を頂けて感謝しています。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> ユダヤ系の倫理や伝統はあなたの哲学や、人生の理解に影響を及ぼしていますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> ええ。生命はつかの間の出来事で、だからこそいかなる方法を用いても守られなければならないと思います。</p>
<h3>&#8220;Frames of war&#8221; について</h3>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> 非暴力が直面する問題は具体的にどんなものでしょう。また、自らの被傷性を認めることというのは何を意味するのでしょうか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 被傷性というのは「私のもの」にはなりえません。暴力的に行動することによって私が自分の屈強さを出そうとしても、必ず失敗します。人は被傷性を乗り越えることは、それがたとえ追求すべき理想に思われたとしても、出来ません。実際国家主義や軍事主義の多くにとってはそれが追求すべき理想だと思われているのですが。私の考えでは、不可能で破壊的な、そして軍事主義の国家主義的なあり方のいくつかを構造付けているような幻想を批判するための視座とは、被傷性の共有であると思います。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> Jill Stauffer とのインタビューにおいてあなたは「他者」を知るようになることは非暴力的に反応することという課題と関連していると言っていました。しかし他者を理解することはどの程度可能なのでしょうか。ある程度の不透明性を認めることは重要でしょうか。<br />
<b>Judith Butler:</b> ええ。私たちは「知る」ということを「すべてを理解して、自分のものにする」 (原文： &#8220;mastery&#8221;) ことと同一視する考えから離れなければなりません。恐らく、他者の被傷性や他者の同等の権利を「認識する」ことについて考え、「あなたは誰？」という疑問を追求する方法はあると思います。この疑問は直接的な呼びかけであり、関係性の中に参入する方法の１つです。しかしそれは、知ることによって他者を所有しようとすることや、「大文字の他者」を知ることの出来ない場所に追いやることと同じではありません。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> この文脈においてメディアはどの程度重要ですか。<del datetime="2010-07-12T05:45:17+00:00"> How could they communicate the ability to non-violent reactions? (訳者注：訳分かりません)</del><del datetime="2010-07-13T18:55:10+00:00"> <strong>どうしたらメディアは（人びとが）非暴力的に（メディアの報道に対して)反応できる能力を伝えられるのか？</strong> (<a href="http://twitter.com/katatemaru/status/18334582194">katatemaru さんによる訳</a> ありがとう！)</del> <strong>この文脈でメディアの重要性とはどのようなものでしょう。メディアはどのようにして非暴力的な反応ができるということを伝えられるのでしょうか。</strong> (<a href="http://twitter.com/tummygrrl/status/18443081085">tummygrrl さんによる訳</a> ここはボクの判断ですが、 tummy さんの訳であれば原文の英文も理解可能だと思ってこちらを追加しました)<br />
<b>Judith Butler:</b> ジャーナリズムやメディアは、どうして戦争があるのか、戦争が引き起こす破壊はどんなものなのか、どのような代替案が可能なのかについて人々が考えられるようなやりかたで戦争を表象する重い責任があると思います。つまり、戦争を語る枠組み自体が、国家主義や人種主義、そしてセンセーショナリズムに対抗しなければいけないということです。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> 暴力的にならずに攻撃性のある感覚を何とかする方法はありますでしょうか。あるいは、他者を傷つけずに、しかし破壊的に行動することは可能なのでしょうか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 攻撃性を持った歌や踊りはたくさんありますし、スポーツは多くがそうですよね。政治的観点については活発な議論や公開の論争が行われています。武道に参加する方法もありますよね。攻撃性を作り出す方法は、発話を通してだったり他の表現方法を通してにしても、傷つけずに出来る方法がたくさんあります。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> 例えばハマスやイスラム原理主義団体、あるいはイスラエルの政治が、クィアで非暴力的なやりかたで自らの攻撃性に対処できるとしたら、どのような方法を提案しますか。また、クィア政治はこの戦いにどのように参入できますか。<br />
<b>Judith Butler:</b> パレスチナにおける正義の推進や「壁に反対するアナーキスト」に活発に参加しているクィア団体はイスラエルに結構います。例えばウェストバンクやベイルートにもクィア団体はあって、私が先程言ったような「ホモナショナリズム」のありかたを批判しようとしています。あまり知られていないということは残念なことです。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> あなたの理論についてですが、 &#8220;Frames of War&#8221; で、すべての人が主体として尊重されてはいないことが問題であるとおっしゃっていましたね。<del datetime="2010-07-12T05:45:17+00:00">社会、政治、人間の生についての思想のほとんどがシステム理論を乗り越えている (訳者注：自信なし、原文： &#8220;most reflections on society, politics and human life passes by system theory&#8221;) 現代においても、主体の存在論を基盤とした政治理論は可能なのでしょうか。</del> <del datetime="2010-07-13T18:55:10+00:00"><strong>今日、社会、政治、人間の生についての考察の多くがシステム理論を無視しているとしたら、主体の存在論に基づく政治理論は可能なのでしょうか？</strong> (<a href="http://twitter.com/katatemaru/status/18334789982">katatemaru さんによる訳</a>)</del> <strong>今日、社会や政治そして人間の生についての考察のほとんどがシステム理論としておこなわれている時、政治理論の基盤を主体の存在論に置くことはいまだに可能なのでしょうか？</strong> (<a href="http://twitter.com/tummygrrl/status/18443151348">tummygrrl さんによる訳</a> こちらも同じ理由で、追加します)<br />
<b>Judith Butler:</b> そうですね。主体の存在を基盤にした政治は不可能です。主体の形成に先立つような社会的な関係性のあり方を考えなければなりません。それに、なぜある者は主体として生成され、またある者はそうならないのかを問う必要があります。ですから主体の存在論には賛同できません。もし承認の権利が平等に分配されるべきだと主張するのであれば、それは、主体を生成し維持している権力の様態について話しているのであり、主体の存在論について話しているのではないのです。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> あなたの理論において、ヘーゲルの主体論と彼の「承認 Anerkennung」の議論はどのように発展されていますか。また、あなたの哲学においてヘーゲルの理論がとても重要なのはどうしてでしょうか。<br />
<b>Judith Butler:</b> 良い質問ですね！　承認が発生するときは、既に成立している言語と規範の中から生まれるのであり、承認される権利を主張することは時に新しい言語の様態や新しい社会慣習を創りだす必要を伴なう、ということを頭に置いておくことが重要だと思います。だからこそ、ある者は「承認可能」であり、またある者はそうでないのです。承認の不平等な分配について考えようとしているのですが、そうするとヘーゲルの承認論に権力理論を接近させることになります。またしかし同時に、承認は常に調停されているという彼の考えを更に進めたいとも思っています。ヘーゲルは、どうしてある者が承認可能とされ、またある者はそうでないのかを説明しませんでした。社会理論家には、承認請求と再分配請求をきっちり分けて考えている人がいるということを私は知っていますが、承認可能性そのものの不平等な分配は政治的に急務な問題であると提言したいです。恐らくころこそがベルリンパレードにおいても結局問題となった部分でしょう。私にとっては、自由を求める闘争は平等を求める闘争と結びついています。</p>
<p><b>AVIVA-Berlin:</b> お時間割いて頂いてありがとうございました。いずれまたベルリンにいらっしゃった際には直接インタビューをさせて頂いて、また私たちの質問にお答え頂けたら幸いです。</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/386/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/386/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/386/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/386/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/386/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/386/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/386/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/386/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/386/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/386/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/386/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/386/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/386/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/386/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=386&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>ベルリンパレードでジュディス・バトラーが受賞拒否 [2010] （日本語字幕、訳付き）</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2010/06/23/butlerrefusesberlincsdaward/</link>
		<comments>http://greatjapan.wordpress.com/2010/06/23/butlerrefusesberlincsdaward/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 23 Jun 2010 04:58:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>
		<category><![CDATA[人種・民族]]></category>

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		<description><![CDATA[英語版 元記事 Butler, Judith. &#8220;I must distance myself from this complicity with racism, including anti-Muslim racism.&#8221; &#8216;Civil Courage Prize&#8217; Refusal Speech. Christopher Street Day. June 19, 2010. Judith Butler &#8211; I must distance myself from this complicity with racism When I consider what it means today, to accept such an award, then I believe, that [...]<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=349&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<span style="text-align:center; display: block;"><a href="http://greatjapan.wordpress.com/2010/06/23/butlerrefusesberlincsdaward/"><img src="http://img.youtube.com/vi/99fGrtYS2q8/2.jpg" alt="" /></a></span>
<h3>英語版</h3>
<ul>
<li><a href="http://www.egs.edu/faculty/judith-butler/articles/i-must-distance-myself/">元記事</a></li>
</ul>
<blockquote><p><strong>Butler, Judith. &#8220;I must distance myself from this complicity with racism, including anti-Muslim racism.&#8221; &#8216;Civil Courage Prize&#8217; Refusal Speech. Christopher Street Day. June 19, 2010.<br />
Judith Butler &#8211; I must distance myself from this complicity with racism</strong></p>
<p>When I consider what it means today, to accept such an award, then I believe, that I would actually lose my courage, if i would simply accept the price under the present political conditions. &#8230; For instance: Some of the organizers explicitly made racist statements or did not dissociate themselves from them. The host organizations refuse to understand antiracist politics as an essential part of their work. Having said this, I must distance myself from this complicity with racism, including anti-Muslim racism.</p>
<p>We all have noticed that gay, bisexual, lesbian, trans and queer people can be instrumentalized by those who want to wage wars, i.e. cultural wars against migrants by means of forced islamophobia and military wars against Iraq and Afghanistan. In these times and by these means, we are recruited for nationalism and militarism. Currently, many European governments claim that our gay, lesbian, queer rights must be protected and we are made to believe that the new hatred of immigrants is necessary to protect us. Therefore we must say no to such a deal. To be able to say no under these circumstances is what I call courage. But who says no? And who experiences this racism? Who are the queers who really fight against such politics?</p>
<p>If I were to accept an award for courage, I would have to pass this award on to those that really demonstrate courage. If I were able to, I would pass it on the following groups that are courageous, here and now:</p>
<p>1) GLADT: Gays and Lesbians from Turkey. This is a queer migrant self-organization. This group works very successfully within the fields of multiple discrimination, homophobia, transphobia, sexism, and racism.</p>
<p>2) LesMigraS: Lesbian Migrants and Black Lesbians, is an anti-violence and anti-discrimination division of Lesbenberatung Berlin. It has worked with success for ten years. They work in the fields of multiple discrimination, self-empowerment, and antiracist labor.</p>
<p>3) SUSPECT: A small group of queers that established an anti-violence movement. They assert that it is not possible to fight against homophobia without also fighting against racism.</p>
<p>4) ReachOut is a councelling center for victims of rightwing extremist, racist, anti-Semitic , homophobic, and transphobic violence in Berlin. It is critical of structural and governmental violence.</p>
<p>Yes, and these are all groups that work in the Transgeniale CSD, that shape it, that fight against homophobia, transphobia, sexism, racism, and militarism, and that &#8211; as opposed to the commercial CSD &#8211; did not change the date of their event because of the Soccer World Cup.</p>
<p>I would like to congratulate these groups for their courage, and I am sorry that, under these circumstances, I am unable to accept this award.</p></blockquote>
<h3>日本語訳</h3>
<blockquote><p><strong>ジュディス・バトラー「反ムスリムを含む人種主義との共犯関係からは、距離を取らざるを得ません」（「シビル・カレッジ（市民の勇気）賞」受賞拒否のスピーチ）２０１０年６月１９日、プライドパレード（クリストファー・ストリート・デー [CSD]）にて</strong></p>
<p>今日このような賞を受けることの意味を考えると、もし現在の政治的状況においてこの賞を受けることは、私にとって、むしろ「勇気」を失ってしまうことになると考えます。今日の政治的状況とは、例えばこのCSDの主催者の中に明確に人種主義的な発言をしたり、それらの発言から自分たちを切り離そうとしなかった人たちがいることです。主催団体（複数）は、彼らの活動の重要な一環として反人種主義政治を理解しようとはしていません。そういった意味で、私はこの、反ムスリムを含む人種主義との共犯関係から距離を取らざるをえないのです。</p>
<p>既に私たちは、暴力的なイスラム嫌悪を利用した移民への文化戦争やイラク・アフガニスタンに対しての軍事戦争などを引き起こそうとする人々によってゲイ・バイセクシュアル・レズビアン・トランス・クィアの人々が利用されてしまうことがあることを知っています。このような時代、そのような方法によって、私たちは国家主義や軍事主義に駆り出されてしまいます。現に今、多くのヨーロッパ諸国はゲイやレズビアン、クィアの権利は守られるべきだと主張しており、私たちは、あたかもそのために移民に対しての新しい形の憎悪が必要であるかのように信じこまされています。ですから、そのような取引に対して私たちは「ノー」と言わなければなりません。このような状況で「ノー」を言うことこそ、私は「勇気」と呼びたいと思います。しかし誰が「ノー」と言っているのでしょうか。そのような人種主義を経験しつつ、クィアであり、そしてそのような政治に本当に対抗している人は、どこにいるでしょうか。</p>
<p>もし「勇気」のために私がこの賞を受けるのであれば、それはそのまま、本当に「勇気」を示している人々に差し出さなければならなくなるでしょう。もし出来るのなら、私は以下の、正に今、この国で勇気を示している団体に捧げると思います。</p>
<p>1) GLADT: トルコ出身のゲイ・レズビアンの団体。これはクィアな移民による当事者団体です。複合差別、同性愛嫌悪、トランス嫌悪、性差別、人種主義の分野で非常に実のある活動をしている団体です。</p>
<p>2) LesMigraS: レズビアン移民と黒人レズビアンの団体。これは Lesbenberatung ベルリン支部内の反暴力・反差別の部門です。１０年以上も実のある活動を行っており、複合差別、自分たちのエンパワーメント、そして反人種主義の分野で活動しています。</p>
<p>3) SUSPECT: 反暴力運動を立ち上げた、少数のクィアによる団体。彼らは人種差別に対抗することなく同性愛嫌悪に対抗することは出来ないと明確に言っています。</p>
<p>4) ReachOut: ベルリンにおける極右的、人種主義的、反ユダヤ人主義的、同性愛嫌悪的、そしてトランス嫌悪的な暴力の被害者のためのカウンセリングセンター。この団体は、構造的・政府的な暴力に対して批判的です。</p>
<p>これらの団体は、 Transgeniale CSD というパレードで活動している団体です。 Transgeniale CSD は同性愛嫌悪、トランス嫌悪、性差別、人種主義、そして軍事主義に対抗しており、他の商業的CSDがワールドカップサッカーに合わせてイベントのスケジュールを変更していた中、唯一スケジュールを変えなかったCSDでもあります。</p>
<p>私は、彼女ら彼らの「勇気」をこそ称えたいと思いますし、残念ながら私はこういった状況下で賞を受けることは出来ません。</p></blockquote>
<h3>追記</h3>
<p>今回のスピーチと、それにまつわる言説について、 tummygirl さんがブログを書いています。</p>
<ul>
<li><a href="http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20100628/1277728869">ホモナショナリズム批判について、あるいは、ジュディス・バトラーによるベルリン・パレードからのプライズ受賞拒否関連メモ</a></li>
</ul>
<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20100628/1277728869"><p>バトラーが反人種主義や反移民差別の政治的目的のために彼女の「セレブとしてのステータス」を利用したこと（あるいはドイツのアクティビストが彼女のそのようなステータスを利用したこと）自体は評価しつつ、ピュアは同時に、バトラーがスピーチにおいて言及した反人種主義の団体の活動こそに、わたくし達の注意を向けようとする。今回の受賞拒否を「バトラー」に還元した表象をくり返すことは、バトラー個人の（あるいはバトラーを説得した団体の）意図とは無関係に、またしても表象／代表するものとしての（権威ある／白人の／アカデミックの）構造的な特権的位置を再確認し、ここまで黙殺されてきた運動の言説を再び黙殺する結果に繋がりかねないからだ（実際、バトラーの受賞拒否はドイツの主要メディアでも報道されたものの、彼女のスピーチにおいてプライドの人種主義への批判があった事、より受賞にふさわしい団体として移民や非白人のクィアの団体が挙げられたことなどは、これらの報道から見事に消し去られたらしい。これについては、下に引用したSUSPECTによる声明文を参照して欲しい）。ピュアは、バトラーの受賞拒否の重要性を、受賞拒否それ自体ではなく、むしろ、それに先んじる／それに引き続く、さまざまな運動体相互のつながりに与えた影響と、上で述べたような引用と表象の構造に対する批判の高まりとに、見ようとするのである。</p></blockquote>
<blockquote cite="http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20100628/1277728869"><p>日本におけるLGBT運動やそれにかかわる議論に潜む「人種主義」や「民族主義」や「国家暴力」の承認の可能性と切り離して語られるべきでも、ない。日本での人種主義や民族主義や国家暴力は、たとえばアメリカ合衆国やドイツのそれとは、一見異なった形で現れるかもしれない（たとえば攻撃の最大のターゲットは「イスラム教徒」でも「トルコ人」でもない、という意味において）。けれどもそれは、日本において人種主義や民族主義や国家暴力がない、という事ではないし、一連の議論（ベルリンの反人種主義の団体によるものも、バトラーや、あるいはピュアによるものも含めて）において批判されているような、LGBTの人権擁護運動と国家主義や排外主義との共謀の危険性を、日本のLGBT／クィア系のアクティビズムや研究が、免れているわけでもない。</p></blockquote>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/349/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/349/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/349/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/349/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/349/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/349/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/349/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/349/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/349/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/349/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/349/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/349/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/349/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/349/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=349&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>内部批判の意義</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2010/05/18/lgbtweek-and-criticism/</link>
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		<pubDate>Tue, 18 May 2010 11:35:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>

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		<description><![CDATA[Twitter 上で松浦大悟さんと数日間やりとりさせて頂いている中で、尾辻かな子事務所閉鎖イベントにおける伏見憲明さんのスピーチの原稿を紹介していただいた。他のユーザーにも言及され、参照されている文章なので、ある一定方向の主張をするときには「まずこれを読んどけ」的な、 the Book 的な位置づけなのかもしれない。更に、彼の文章を紹介するブログ記事も見つけることができた。ボク自身は伏見さんの言いたいことも分かるし、それが（広い意味での）政治的な文脈で何らかの重要性を持つ／持っていたことも分かる。分かるのだけれども、同時に、表舞台に立って人々の支持を得ようとする際の問題を、ある部分においては明確にしつつ、しかしまたある部分においては隠蔽してしまう効果を持っているような気がして、特にその後者の部分に光を当てたいと思ってこの文章を書いているところ。<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=341&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Twitter 上で松浦大悟さんと数日間やりとりさせて頂いている中で、尾辻かな子事務所閉鎖イベントにおける伏見憲明さんのスピーチの原稿を紹介していただいた。他のユーザーにも言及され、参照されている文章なので、ある一定方向の主張をするときには「まずこれを読んどけ」的な、 the Book 的な位置づけなのかもしれない。更に、彼の文章を紹介するブログ記事も見つけることができた。ボク自身は伏見さんの言いたいことも分かるし、それが（広い意味での）政治的な文脈で何らかの重要性を持つ／持っていたことも分かる。分かるのだけれども、同時に、表舞台に立って人々の支持を得ようとする際の問題を、ある部分においては明確にしつつ、しかしまたある部分においては隠蔽してしまう効果を持っているような気がして、特にその後者の部分に光を当てたいと思ってこの文章を書いているところ。よってこの文章は尾辻かな子さんや彼女の活動、あるいは伏見憲明さんの文章や彼の目指す方向性を批判しようというつもりで書いているのではなく、尾辻かな子さんに限らず今後数多く出て来るであろうセクシュアル・マイノリティ議員候補を応援する気持ちから書かれたものであると理解して頂ければ幸いです。</p>
<p>松浦大悟議員とのやりとりは『<a href="http://togetter.com/li/19629">「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」　何が問題か？</a>』で読めます。この文章をお勧め下さった松浦議員のツイートはこちら: <a href="http://twitter.com/GOGOdai5/status/13528077404">http://twitter.com/GOGOdai5/status/13528077404</a><br />
伏見憲明さんのスピーチ原稿は『<a href="http://www.pot.co.jp/fushimi/%e3%82%b9%e3%83%94%e3%83%bc%e3%83%81%e3%80%8c%e5%85%88%e4%ba%ba%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e6%80%9d%e3%81%84%e3%81%ab%e5%af%84%e3%81%9b%e3%81%a6%e3%80%8d.html">スピーチ「先人たちの思いに寄せて」</a>』で読めます。<br />
伏見さんの原稿を紹介しているブログ記事は『<a href="http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20100507/1273213584">セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間</a>』で読めます。</p>
<p>スピーチの後半、伏見さんは尾辻かな子さんの落選の原因が何だったのかを分析しています。</p>
<p>まず「尾辻さんの挑戦を否定的に捉える必要はまったくない」が、同時に「敗戦から学ぶことも必要」だと主張し、「現実から多くを受け止めなければなりません」と言って、分析に入ります。尾辻さんの選挙活動に詳しい沢辺均さんによれば、尾辻さんはLGBTの票を取り込めていたとは言えないが、同時に「尾辻さんの親戚筋の多い鹿児島」では高い得票率が見られたとのことで、これをもって伏見さんは「同性愛者であることを明らかにして立候補することが、とくにプラスにもなっていないがマイナスにもなっていない、という事実を表してい」ると主張します。そして、マイナスになる要因（攻撃的な勢力がいるとか、メディアがこきおろすとか）が無かった上に、候補者や選挙対策における力不足や魅力不足も見られないのであれば、それは「むしろ日本のセクシュアルマイノリティが政治的な主体として層を成していない、成す必要をあまり感じていないのだ、というふうにとらえたほうがいい」のではないか、と伏見さんは分析します。</p>
<p>そして、セクシュアル・マイノリティが政治的な主体として層を成さない理由を、「その多くが日々の暮らしのなかでそれなりに苦しさを抱えながらも、それなりに満足もしているという中途半端な状況を生きている」からであり、一方で「現在でも差別はそこかしこにあ」るが、同時に「すでにこの社会はある程度セクシュアルマイノリティのことを受け入れようとしている」からではないか、との考えを提示します。</p>
<p>その上で、セクシュアル・マイノリティの内部の利害の共通項を見つけるのが困難である現代、「さまざまな立場の当事者をいかにつなぎ、共有する目標を設定できるのか。そしてどんな社会構想をこちらから積極的に提出できるのか」が重要になると主張し、「いまや必要とされているのは、『セクシュアルマイノリティの政治家』ではなく、『優れた政治家で、なおかつ、セクシュアルマイノリティの問題を解決できる人物』」であり、「私たちがいま、ハーヴィー・ミルクから学ぶべきことは、セクシュアルマイノリティのゲットーを作ったり、社会を敵と仮定して闘っていく過激さでは」ない、と言って、スピーチを締めくくっています。</p>
<p>ボクは、伏見さんの言うようなセクシュアル・マイノリティ当事者内の多様性については正にその通りだと思うし、共通項を見つけてつながることが困難である中、つながる努力を怠るのではなく、かと言ってセクシュアル・マイノリティのゲットー化を目指すのでもない方向性というものに共感しています。ただ、尾辻さんの落選の分析に関しては、意見を異にします。</p>
<p>ボクは、そもそも LGBT が尾辻かな子さんに投票するだろうという予想自体、間違っていたと思います。それは伏見さんも同様に思っていると思います。ただその理由は、伏見さんが思っているような「（セクシュアル・マイノリティの多くは）日々の暮らしのなかでそれなりに苦しさを抱えながらも、それなりに満足もしているという中途半端な状況を生きている」から、あるいは「すでにこの社会はある程度セクシュアルマイノリティのことを受け入れようとしている」からではなく（そういう側面も、状況によってはあるかもしれませんが）、多くのセクシュアル・マイノリティが（積極的に彼女に投票「しなかった」のではなく）自分の生活にとって重要な争点について魅力的な政策を掲げている他の候補者に積極的に投票「した」から、あるいは（尾辻さんも含め）自分の生活にとって重要な争点について魅力的な政策を掲げているような候補者が見つからなかったから、ではないかと思うのです。</p>
<p>もちろん、尾辻落選にレズボフォビア（レズビアン嫌悪・恐怖）やミソジニー（女性嫌悪）が無縁だとは言いません。しかしLGBTは国籍、障害、階級、職種、地域、階層、教育レベルなどを横断して存在してるのであり、3-5%いるLGBTがみな尾辻ひとりに投票するわけがありません。階級や障害の有無、国籍などにより個々人がそれぞれ「もっと急務」な問題を抱えていて、例えば今年ビザが切れて国外退去を迫られるかもしれない人を友人やパートナーに持つ有権者は外国人の滞在に関して寛容な政策を掲げている候補者に投票したかもしれない。しかしそれはその人にとってLGBTであることの問題が小さいわけでも、社会のLGBTを取り巻く状況にそこそこ満足しているからでもなく、やむを得ず、生きるためにした苦渋の選択でありましょう。</p>
<p>一方で <a href="http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20100507/1273213584">ima-inat さんのブログ</a>では伏見さんの文章を受けて、以下のように言っています。</p>
<blockquote><p>一方で尾辻さんの落選は、マイノリティに優しい権力-社会の存在を示唆するものであるかもしれない。しかし、他方、その落選は、現実には価値多元的な社会を「みんな」が望んでいるわけではないことをも、指し示しているのである。仮に「みんな」が、理想的な社会構想——価値多元的な社会——を現実に造り上げようと欲していたのであれば、レズビアンというマイノリティが参議院に現れるということを実現させようと欲していたのなら、彼女に投票したであろう。</p></blockquote>
<p>ボクはこの分析にも、賛成できません。尾辻落選からは、LGBTが政治への接続を必要としてないとも、みな本当は価値多元的な社会を望んでないとも言えないのではないかと思うのです。LGBTの問題の政治における争点化が重要であると思っていて、かつ価値多元的な社会を望んでいたとしても、尾辻さんに投票しないという選択はあり得ます。LGBTであること以外になんら生活上の苦痛が無い人であれば迷わず尾辻さんに投票したかもしれないけれども、尾辻さんがあれだけLGBTの問題を前面に出して選挙活動する中、障害者の雇用について積極的な政策を前面に出した候補者や、外国人参政権に積極的な政策を前面に出した候補者に投票したLGBT当事者は確実にいたでしょう。それは裏切りでもなんでもなく、自分自身の、そして自分の周囲の人間の生活のために行った決断であって、LGBTの差別が解消されてきた証拠とは言えないと思います。</p>
<p>結論を言う前にことわっておくと、伏見さんの主張と ima-inat さんの主張は決して同じではなく、個人的には伏見さんの考えの方が説得力があると思います。また、お二人が思う尾辻落選の原因も、全くもってあり得ない話ではないと思います。ただ、 ima-inat さんのご主張は基本的に尾辻落選の原因から尾辻さんの責任を取り除くような、つまり原因は尾辻さんにはなく、あたかも社会全体の変化とLGBTの有権者のみにあるかのような印象を与えると思います。伏見さんのご主張は（恐らく） ima-inat さんの主張と呼応しつつも、しかし「それに対応出来る政治家」となることを尾辻さんや将来の候補者たちに求める点で、説得力を持ってはいると思います。しかしそれでも今回伏見さんの文章が紹介されたのは『<a href="http://togetter.com/li/19629">「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」　何が問題か？</a>』の文脈であり、つまり「頻繁に行われるようなアクティビズムに対しての批判はアクティビズムの発展を阻むものであり、控えるべきである」という主張を支えるための後ろ盾として伏見さんの文章が使われていることに、ボクは危険を感じるのです。</p>
<p>尾辻さん含め何らかの形で表舞台に立って発言や行動をする人や表舞台に立つアクティビズムがLGBTやクィアの人々から大きな支持を得られないときに、その責任をその表舞台に立つ人・団体・活動ではなく、批判者に押し付けることは、次のような問題があると思います。第一に、LGBTを含む多くの投票者がそれぞれ様々な立場（国籍、障害の有無、階級、性別、人種・民族、教育レベル、地域、職種など）を跨ぐようにして生活していることから目を逸らしてしまうこと。そして第二に、実際に尾辻さんがどうであったか、あるいはどういった方向性を望んでいるのかにかかわらず、尾辻さんのような立場の人やアクティビズムに活発に関わる人々がマルチイシューに物事を運ばないことの言い訳を作ってしまうことです。作られた言い訳を本人が喜んで受けれたり採用するかにかかわらず、あるいは本人がマルチイシューな物事の運び方を目指しているかにかかわらず、そういった言い訳を常に用意して（あげて）いることには、何らかの政治的意図や個人的理由があるのではないかと勘ぐってしまいます。</p>
<p>伏見さんのご主張は、「頻繁に行われるようなアクティビズムに対しての批判はアクティビズムの発展を阻むものであり、控えるべきである」というものではありません（と、勝手に思っています）。伏見さんの文章はセクシュアル・マイノリティの多様性にも触れており、その多様な中でいかにつながりを作っていくのか、そしてそれを受けて活動家や政治家にどのような行動が求められているのかについて語る文章です。様々な細かい点で伏見さんとは意見を異にしますが、そこにある基本的なスタンスには共感しています。ただ、尾辻落選の原因分析において、様々な立場にあるLGBTの支持を得るために尾辻さんが出来たことへの言及を避けて、社会状況やLGBTの有権者側だけの責任に言及なさることは、尾辻かな子事務所閉鎖イベントのスピーチであることを考慮しても、上に書いたような「言い訳」を作る材料を提供してしまったとは言えると思います。</p>
<p>ボクは尾辻さんの更なる活躍を願っていますし、多くの他の活動家や、ロビー活動をしている人たちが行っているアクティビズムを尊敬しています。そして、今後もそういった活動が発展していくことを願いながら、自分も機会あるごとに参加していきたいと思っています。そして、そういった発展のためにも、尾辻さんの場合で言えば（当事者の投票を望むのであれば）なぜ当事者が投票しなかったのかを、投票者側の分析だけではなく尾辻さん自身の政策の分析も通して考えなければいけないと思いますし、他のアクティビズム、例えば今回の「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」であれば、なぜ当事者の支持が大規模に集まらないのかを、批判する当事者たちの分析だけでなく「週間」の活動自体の分析も通して、考えなければいけないと思います。でなければ、尾辻さんや「週間」の側に常に「シングルイシュー（や、それに近い形）での活動をすることの言い訳」を提供し続けてしまうでしょう。そもそも彼女ら彼らがそんな言い訳を望んでいるかも分からないですし、活動してる人たちには恐らく、批判があったり支持が集まらなければ「自分たちの何が問題だったのだろう」とまず考えるタイプの人が多いと思うのですけれども。</p>
<p>言いたいことは以上ですが、念のため繰り返し書いておきます。これは、伏見さんの文章自体への批判を目的とする文章ではなく、その使われ方、つまり「LGBT全体のために、批判は控えるべき」という主張においてこの文章が証拠のように出されることを批判しようとした文章です。ボクが一生懸命読んで理解した限り、伏見さんの文章からはそのような結論には至りません（むしろ本当は尾辻批判、というか、少なくとも尾辻鼓舞をしたかったんじゃ？と思えてきた、読めば読むほど）。</p>
<p>「批判する当事者」側の主張に問題がある場合もあるでしょう。逆に、批判される側に批判されて然るべき原因がある場合もあるでしょう。しかしそれは、各々の文脈において事後的に確認されることであり、批判-前に想定出来るものではありません。もしきちんとした分析がなされた結果、尾辻落選の原因は社会状況であって尾辻さん本人や彼女の政策ではない（つまりLGBT全員にとって尾辻さんは最善の選択であって、それでも投票しない人がいた）、という結果が出たら、ボクは上に書いた主張を取り下げます。しかし尾辻さんの場合にそうだったからと言って全ての場合において「支持しない／批判する当事者」側が責められるのはおかしいですし、具体的に文脈に沿った理由を挙げずに「批判は控えるべきだ」と言われるのもおかしいと思います。また、尾辻落選の原因が社会状況であったとしても、尾辻さんがマルチイシューな活動をしなくてもいいということにはなりません（してない、と言ってるわけではないです）。</p>
<p>ボクは、多くの人にマルチイシューな活動をして欲しい。自分が行っている活動も同様にマルチイシューにやって行きたい。そうすることでしか救われない人がいる、そして自分自身もそうでなければ救われない。また、多くの人はそういう活動の必要性を感じているはずです。マルチイシューな活動は100回やれば99回くらい失敗するんじゃないかってくらい難しいことですが、99回批判を受ければ次の100回のうち5回くらいは成功するかもしれない。そこでまた95回批判を受ければ、次の100回では20回くらい成功するかもしれない。尾辻さんにしろ「週間」にしろ、「彼ら彼女らへの批判は控えるべきだ」という人たちは、彼女ら彼らの活動の更なる発展を望んでいないのでしょうか。より多くの当事者が関われるような、支援できるような活動を作っていくこと、それはつまり伏見さんが言う「さまざまな立場の当事者をいかにつな」ぐのかをきちんと考えることと同じだと勝手に思っているのですが、そういうことを通して初めてLGBTやクィアのあいだのつながりが出来ると思うのです。</p>
<p>そしてそれには、「批判」が必要不可欠です。人によっては、「そんな風に批判ばかりをされては、もう少しで実を結びそうなこの活動が水の泡になってしまう。待っている時間はない」と言うかもしれません。けれど、その「もう少しで実を結びそうなこの活動」のために、既に待っている人がいることを忘れてはいけないと思うのです。その上更に批判することまで「待て」と言うのであれば、ボクはそれに全力で抵抗しますし、批判をし続けます。</p>
<p>ブツっと切りますが、キリがないのでここで。</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/341/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/341/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/341/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/341/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/341/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/341/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/341/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/341/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/341/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/341/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/341/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/341/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/341/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/341/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=341&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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			<media:title type="html">Masaki</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>5/15 屋外オカマバー『バーおっかまん』月１で開催 in 群馬！</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2010/05/02/515-%e5%b1%8b%e5%a4%96%e3%82%aa%e3%82%ab%e3%83%9e%e3%83%90%e3%83%bc%e3%80%8e%e3%83%90%e3%83%bc%e3%81%8a%e3%81%a3%e3%81%8b%e3%81%be%e3%82%93%e3%80%8f%e6%9c%88%ef%bc%91%e3%81%a7%e9%96%8b%e5%82%ac-in/</link>
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		<pubDate>Sat, 01 May 2010 15:03:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[告知／ニュース]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://greatjapan.wordpress.com/?p=327</guid>
		<description><![CDATA[わたくしの母が主催者なのですが、来る５月１５日（土）の夜６時から屋外オカマバーをOPENします。これはわたしたちの住む群馬県館林市の月１のイベント「下町夜市」への出店ということで、他にもいろんなお店が出ていて賑やかな感じになることが予想されます。 母とわたくしは今から準備に奔走しております。その様子などをブログで書いたり、告知をしたりするためにサイトを作ったので、よかったらそちらのお気に入り登録やRSS登録をお願いします。アクセス情報なども載っています。 http://baroccaman.wordpress.com/ また、mixi上にコミュニティも作ったので、よかったらご参加ください☆ http://mixi.jp/view_community.pl?id=4998305 以下、バーおっかまんの趣意文です。 バーおっかまんは、恋愛の対象が同性の方や 自分の体の性別に違和感がある方、そして 障害がある方や外国出身の方など すべてのお客さまを大歓迎します 性のあり方が「普通ではない」とされる人たちは 例えば１クラスに１−２人いると言われています。 きっと群馬にも、いや館林にもたくさんの LGBTQ（レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・ トランスジェンダー・クィア 次の項目に説明アリ）の市民の方がいて 毎日仕事に行ったり学校に行ったり 近所づきあいをしていることでしょう。 しかしそのような方が集まれる場所は 群馬県内にほんの少ししかありません 東京まで行ってやっと同じ仲間に会えるという人が きっと、たくさんいらっしゃると思います そこでわたしたちは バーおっかまんをやることにしました どのような性のあり方をしていても わたしたちは同じ市民であり この夜市を楽しむことができると信じて…<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=327&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://baroccaman.wordpress.com/"><img alt="" src="http://baroccaman.files.wordpress.com/2010/05/mixithumbnail.gif?w=509&#038;h=342&#038;h=342" title="Bar OccaMan Logo" class="aligncenter" width="509" height="342" /></a></p>
<p>わたくしの母が主催者なのですが、来る５月１５日（土）の夜６時から屋外オカマバーをOPENします。これはわたしたちの住む群馬県館林市の月１のイベント「下町夜市」への出店ということで、他にもいろんなお店が出ていて賑やかな感じになることが予想されます。<br />
<span id="more-327"></span><br />
母とわたくしは今から準備に奔走しております。その様子などをブログで書いたり、告知をしたりするためにサイトを作ったので、よかったらそちらのお気に入り登録やRSS登録をお願いします。アクセス情報なども載っています。</p>
<p><a href="http://baroccaman.wordpress.com/">http://baroccaman.wordpress.com/</a></p>
<p>また、mixi上にコミュニティも作ったので、よかったらご参加ください☆</p>
<p><a href="http://mixi.jp/view_community.pl?id=4998305">http://mixi.jp/view_community.pl?id=4998305</a></p>
<p>以下、バーおっかまんの趣意文です。</p>
<blockquote><p>バーおっかまんは、恋愛の対象が同性の方や<br />
自分の体の性別に違和感がある方、そして<br />
障害がある方や外国出身の方など<br />
すべてのお客さまを大歓迎します</p>
<p>性のあり方が「普通ではない」とされる人たちは<br />
例えば１クラスに１−２人いると言われています。</p>
<p>きっと群馬にも、いや館林にもたくさんの<br />
LGBTQ（レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・<br />
トランスジェンダー・クィア <font color="red">次の項目に説明アリ</font>）の市民の方がいて<br />
毎日仕事に行ったり学校に行ったり<br />
近所づきあいをしていることでしょう。</p>
<p>しかしそのような方が集まれる場所は<br />
群馬県内にほんの少ししかありません<br />
東京まで行ってやっと同じ仲間に会えるという人が<br />
きっと、たくさんいらっしゃると思います</p>
<p>そこでわたしたちは<br />
バーおっかまんをやることにしました</p>
<p>どのような性のあり方をしていても<br />
わたしたちは同じ市民であり<br />
この夜市を楽しむことができると信じて…</p></blockquote>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/327/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/327/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/327/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/327/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/327/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/327/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/327/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/327/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/327/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/327/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/327/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/327/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/327/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/327/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=327&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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			<media:title type="html">Masaki</media:title>
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	</item>
		<item>
		<title>ひろこさんには借りがある</title>
		<link>http://greatjapan.wordpress.com/2010/04/30/%e3%81%b2%e3%82%8d%e3%81%93%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%ab%e3%81%af%e5%80%9f%e3%82%8a%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b/</link>
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		<pubDate>Fri, 30 Apr 2010 05:09:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>
		<category><![CDATA[障害]]></category>

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		<description><![CDATA[『ハートをつなごう』というNHKの番組シリーズで昨日放送されたのは、障害をもつこととLGBTであることの両方がどのように重なるのかについてだった。それを見て、まず感想として持ったのは、「差異を認め、それを祝福することに、どうしてそんなに『幸福』が重要になってるんだろうか」というものだった。ひろこさんはVTRにも登場し、スタジオでメインゲストとしてインタビューを受けた、脳性麻痺を持つトランスジェンダー女性だ。彼女は番組中頻繁に「幸せそう」とか「かわいい人」と言われ続け、「やりたいことをやってる」強い心を持った人のような扱いばかりを受けた。でももし彼女が憂鬱な人だったら？　実際彼女が憂鬱な日々を送っていたことは、番組からも明らかだ。 スタジオインタビューでひろこさんは、頚椎を痛めて着たい服を自分で着れなくなったとき、手首を切ろうとしたと語る。それまではひとりで夜中に女性用の服を着て楽しんでいたが、服を着るのに介助が必要になったのだ。彼女は自殺願望を克服したのではない。彼女は単に、自ら手首を切ることが不可能だっただけだ。このようなことこそが私たちが真剣に考えなければいけないことだと思う。つまり、彼女の障害のために、彼女のセクシュアリティやジェンダー自認が消し去られてしまうという事態を、考えなければならない。昨日の番組のテーマは「ダブル・マイノリティ」。つまり、ひとは時に１つ以上の種類の差別にあうという意味であり、ひろこさんのケースではシスジェンダー中心主義と健常者中心主義の２つである。そしてこれが現実に何を意味するのかといえば、同情の念を表現することに躍起になっていた司会の男性が言うように単に２つの差別に同時に晒されているということではなく、人々は障害を持つ人間の性が障害を持たない人間と同じように性的であることを容易に忘れてしまうということである。ひろこさんにとってケガによる自由の喪失は、小さいころからずっと頚椎を痛めるまで楽しんでいた「女装」の終了を意味した。数年かけてやっと、女装をするときの介助や、女装をしたひろこさんとの散歩をする、理解のあるヘルパーに出会えたという。ボクはそれを、ほとんど奇跡だっただろうと思う。 確かにひろこさんは幸せそうに見えた。赤のチェックのミニスカートを着て、とてもうれしそうだった。しかしスタジオで交わされた言葉のいくつかには、ボクは我慢が出来ない。ひとりは、とても肯定的なことを言っているような顔をしながら、いかにひろこさんが「やりたいことをやってい」て、「すごく幸せそう」で、「勇気づけられる」かというようなことを繰り返し言っていた。また他のゲストは彼女の「チャーミング」な性格に言及し、「とてもかわいい人ですよね」と言った。ここで「あなたはとてもかわいい人ですね」ではなく、他の人に向かって「彼女はとてもかわいい人ですよね」と言ったこと、つまりこの人がいかにひろこさんの主体性を尊重していないかという問題は、とりあえず横に置いておく。しかし本当にいらいらするのは、この「幸せそう」とか「かわいい人」とかいう言い方だ。 VTRからもスタジオからも、ひろこさんがこれまで、健常者のほとんどが想像も出来ないほどの困難を経験してきたであろうことは明確に分かることだった。しかし今たまたま彼女が憂鬱とした日々から抜けだして、服装に関してある程度の自由を手に入れたからといって、いきなり彼女の人生の「より明るい部分」だけを称揚して、「好きなことをやっていていい！」とか「私もやりたいことをして生きていていいんだと思えました」とか言い出すのは、理解が出来ない。ひろこさんを他の人々と同様に扱うということはもちろん多くの場面において正しいことだと思う。しかしそれが時々引き起こすのは、彼女の変化に富んだ人生、彼女がこれまで経験してきたいいことも悪いことを、全て無視してしまうという事態だ。彼女の「強さ」や「勇気」を素晴らしいと思い、何かそれらから学ぼうとする暇があったら、まず彼女自身が自分の人生について何を語っているのかにもっと注意を払い、その人生のより暗い部分もまた尊重し、「幸せそう」とか「かわいい人」とか言うのをやめるべきだと思う。 私も含め、健常者の多くは、ひろこさんに借りがあるということを認識するべきだ。彼女は障害とLGBTの重なり方について私たちに確かに色々教えてくれた。しかしその恩義を私たちが容易に忘れて、「お返し」をしないで済ませてしまうのは、本当に問題だと思う。 個人的に、VTRにはあまり怒りを感じませんでした。スタジオで交わされた言葉が本当に嫌だったという話で。<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=325&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="http://greatdvc.files.wordpress.com/2010/04/screen-shot-2010-04-30-at-4-01-11-am.png?w=300&#038;h=85" alt="" title="Heart TV Logo" width="300" height="85" class="alignright size-medium wp-image-250" />『ハートをつなごう』というNHKの番組シリーズで昨日放送されたのは、障害をもつこととLGBTであることの両方がどのように重なるのかについてだった。それを見て、まず感想として持ったのは、「差異を認め、それを祝福することに、どうしてそんなに『幸福』が重要になってるんだろうか」というものだった。ひろこさんはVTRにも登場し、スタジオでメインゲストとしてインタビューを受けた、脳性麻痺を持つトランスジェンダー女性だ。彼女は番組中頻繁に「幸せそう」とか「かわいい人」と言われ続け、「やりたいことをやってる」強い心を持った人のような扱いばかりを受けた。でももし彼女が憂鬱な人だったら？　実際彼女が憂鬱な日々を送っていたことは、番組からも明らかだ。<br />
<span id="more-325"></span><br />
スタジオインタビューでひろこさんは、頚椎を痛めて着たい服を自分で着れなくなったとき、手首を切ろうとしたと語る。それまではひとりで夜中に女性用の服を着て楽しんでいたが、服を着るのに介助が必要になったのだ。彼女は自殺願望を克服したのではない。彼女は単に、自ら手首を切ることが不可能だっただけだ。このようなことこそが私たちが真剣に考えなければいけないことだと思う。つまり、彼女の障害のために、彼女のセクシュアリティやジェンダー自認が消し去られてしまうという事態を、考えなければならない。昨日の番組のテーマは「ダブル・マイノリティ」。つまり、ひとは時に１つ以上の種類の差別にあうという意味であり、ひろこさんのケースではシスジェンダー中心主義と健常者中心主義の２つである。そしてこれが現実に何を意味するのかといえば、同情の念を表現することに躍起になっていた司会の男性が言うように単に２つの差別に同時に晒されているということではなく、人々は障害を持つ人間の性が障害を持たない人間と同じように性的であることを容易に忘れてしまうということである。ひろこさんにとってケガによる自由の喪失は、小さいころからずっと頚椎を痛めるまで楽しんでいた「女装」の終了を意味した。数年かけてやっと、女装をするときの介助や、女装をしたひろこさんとの散歩をする、理解のあるヘルパーに出会えたという。ボクはそれを、ほとんど奇跡だっただろうと思う。</p>
<p>確かにひろこさんは幸せそうに見えた。赤のチェックのミニスカートを着て、とてもうれしそうだった。しかしスタジオで交わされた言葉のいくつかには、ボクは我慢が出来ない。ひとりは、とても肯定的なことを言っているような顔をしながら、いかにひろこさんが「やりたいことをやってい」て、「すごく幸せそう」で、「勇気づけられる」かというようなことを繰り返し言っていた。また他のゲストは彼女の「チャーミング」な性格に言及し、「とてもかわいい人ですよね」と言った。ここで「あなたはとてもかわいい人ですね」ではなく、他の人に向かって「彼女はとてもかわいい人ですよね」と言ったこと、つまりこの人がいかにひろこさんの主体性を尊重していないかという問題は、とりあえず横に置いておく。しかし本当にいらいらするのは、この「幸せそう」とか「かわいい人」とかいう言い方だ。</p>
<p>VTRからもスタジオからも、ひろこさんがこれまで、健常者のほとんどが想像も出来ないほどの困難を経験してきたであろうことは明確に分かることだった。しかし今たまたま彼女が憂鬱とした日々から抜けだして、服装に関してある程度の自由を手に入れたからといって、いきなり彼女の人生の「より明るい部分」だけを称揚して、「好きなことをやっていていい！」とか「私もやりたいことをして生きていていいんだと思えました」とか言い出すのは、理解が出来ない。ひろこさんを他の人々と同様に扱うということはもちろん多くの場面において正しいことだと思う。しかしそれが時々引き起こすのは、彼女の変化に富んだ人生、彼女がこれまで経験してきたいいことも悪いことを、全て無視してしまうという事態だ。彼女の「強さ」や「勇気」を素晴らしいと思い、何かそれらから学ぼうとする暇があったら、まず彼女自身が自分の人生について何を語っているのかにもっと注意を払い、その人生のより暗い部分もまた尊重し、「幸せそう」とか「かわいい人」とか言うのをやめるべきだと思う。</p>
<p>私も含め、健常者の多くは、ひろこさんに借りがあるということを認識するべきだ。彼女は障害とLGBTの重なり方について私たちに確かに色々教えてくれた。しかしその恩義を私たちが容易に忘れて、「お返し」をしないで済ませてしまうのは、本当に問題だと思う。</p>
<p>個人的に、VTRにはあまり怒りを感じませんでした。スタジオで交わされた言葉が本当に嫌だったという話で。</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/greatjapan.wordpress.com/325/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/greatjapan.wordpress.com/325/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/greatjapan.wordpress.com/325/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/greatjapan.wordpress.com/325/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/greatjapan.wordpress.com/325/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/greatjapan.wordpress.com/325/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/greatjapan.wordpress.com/325/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/greatjapan.wordpress.com/325/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/greatjapan.wordpress.com/325/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/greatjapan.wordpress.com/325/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/greatjapan.wordpress.com/325/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/greatjapan.wordpress.com/325/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/greatjapan.wordpress.com/325/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/greatjapan.wordpress.com/325/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=325&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<title>「わたしには言葉しかない」場合——告発と検閲</title>
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		<pubDate>Wed, 28 Apr 2010 09:29:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>cmasak</dc:creator>
				<category><![CDATA[クィア]]></category>
		<category><![CDATA[フェミニズム]]></category>
		<category><![CDATA[人種・民族]]></category>

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		<description><![CDATA[言葉を持つこと、すなわちある程度の語彙と論理性に関する能力の訓練が可能な機会に恵まれた人生を一定期間過ごしたことがあるということは、やっぱり権力性を帯びないわけがない。そんなことは当たり前で、だからもちろん言葉を持つことというのは、特にその言葉が歴史的・社会的に権力を持っている／持って来たような文化のものであるとき、暴力的になり得るし、その取り扱いには注意しなければならない。しかもそれは西洋中心的な学問の言語であったり、あるいは啓蒙主義的で道徳的な語彙や定義であったり、色んな形態を取る。 言語は文化と密接に結びついているから、例えばある種類の「人種」を名指す言葉があったとき、それはその語彙を用いる文化における「人種」という概念そのものの見方を反映しているし（注１）、同時にその語彙によってその概念自体が再生産されたり強化されているだろう。ある時代になって初めてある特権的な領域（例：医学、法学）から新たな語彙が発明され、それが流通することで、世界の風景が変化することも多々ある。例えばセクシュアリティに関しては、それ自体が近代西洋医学によって発明された概念であり、それ以降西洋文化に影響を受けて来た社会においてはセクシュアリティが人を分類する一つの基準として採用されている。またあるいは「人工物」と「自然」を分ける考え方も、山々や木々、湖畔や昆虫などの風景を見る目をある程度枠付けしているだろう。 だから言葉は無力ではない。物理的な暴力の前には言語など役に立つわけがないという考えは、しかし何を「暴力」とするのかという言語的な問題を抜きに短絡的に同意してはならない種類のものだ。なぜなら、言語使用者を屈服させて物理的な暴力にものを言わせる行為というもの自体が、時に「文明的な社会（言語を使用し、理性によって統制されているような人々の集団）」に対する「野蛮な無法者（まともな言語を話さず、狂気に満ちた人々の集団）」という脅威、という枠組みで捉えられるからだ。そのように境界付けされた「無法者」たちは、まともな言語を話さないとされているのだから、どんなに声を届けようと挑戦しても、単なる狂者の「うめき声」としか解釈されない。だから「文明的な社会」に住む人々にとって本当の脅威は「野蛮な無法者」による物理的な暴力ではない。本当に彼ら彼女らが恐れているのは、「野蛮な無法者」の「うめき声」が実際に意味をなしてしまう瞬間である。 「野蛮な無法者」にとって、たとえどれだけ「野蛮な無法者」というのが不当な名付けであったとしても、それに対して不当性を訴えて名付けを拒否することは不可能である。それは、もちろん「まともな言語の話せない者には語彙の問題について意見など出来るわけがない」という文化的な信条／命令があるからであり、それと同時に、「野蛮な無法者」という呼びかけに応えないと決めた瞬間その者は、一切の語彙からはじき出されてしまうからだ。「野蛮な無法者」という名は、不当な名でありながら、同時にそこで名付けられている者にとっての唯一の名であり、それを使わずして世界に自分の存在を表明することすら出来ないような種類の名なのである。だから「野蛮な無法者」は、言語を捨て去ることが出来ない。どれだけその言語が彼あるいは彼女に不当な名付けを強いていようと、どれだけ不当な位置性を強いていようと、例えばサタンの肌の色がネガティブに「黒」と象徴づけられているからと言って「黒」という言葉を捨ててしまったら、たちまちサタンの肌の色を表す言葉がなくなってしまうのと同じように、「野蛮な無法者」「として」でもいいから存在しなければならない、という切実な（しかし仕組まれたデキレースのような）踏ん張りが、彼女あるいは彼を土俵際に留まらせているのだ。 しかしなぜそもそも彼あるいは彼女が、気づいた時には既に土俵際に追いつめられていたのかを考えなければいけない。「野蛮な無法者」は「野蛮な無法者」に生まれるわけじゃないが、誰が「野蛮な無法者」とされるか、あるいは、どの者の声が「うめき声」とされるかということに関しては、その者が生まれる前に文化的な規範によってある程度決まっている。この文化的な規範というのは多くの場合専門的な語彙に支えられており、例えば「東洋」、「同性愛者」、「黒人」など、「科学的」とされる語彙がそういった役割を担って来た。他にも「テロに屈しない」だとか「自己責任」、「フェミナチ」なんていう語彙も、その言葉が使用される文脈にある文化的な規範を反映するし、同時にそれらの規範を再生産する。 じゃあ「野蛮な無法者」側に配置されてしまっている者にとって、その配置を完全に拒否することがすなわち自身の存在の無化を意味するのだとしたら、どんな抵抗が可能なのだろうか。それは、新しい語彙や定義を文化的状況に投入して行くことでしかない。例えば &#8220;Black Is Beautiful&#8221; とか &#8220;womyn&#8221; とか &#8220;queer&#8221; とか &#8220;Lame is Good&#8221; と言うことで既に存在する語彙に新たな意味を付与しようとする運動に見られることであり、また一方で現状では関連して考えられていない語彙を結合させたりすることにも見られる（例：「ホモは普通」）。どのような語彙をどのように改変するかというのは人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるので、例えばある人にとって有効だと思うやり方がまたある人にとっては問題を更に深めると感じられる場合もある（例：「ホモは変態です」と言って「変態」という言葉の改変を目指す方向と「ホモは普通です」と言って「ホモ」という言葉の改変を目指す方向は、共有出来る思想があるにせよ、どこかで矛盾せざるを得なかったり）。 しかしこういった言語自体に介入することで行う抵抗は、しかし、大体の場合すぐには成功したりしない。そもそも「まともな言語を話さない」者たちのそういった試みは、「語彙の誤用」だとか「文法エラー」だとか言われて無視されたり、検閲されたりするのだ。だからそこには練り上げられた戦略が必要になる（本来そんな戦略を練らなければいけない謂れは一切ないのだけれど）。どんな戦略を採用するかというのは、やはり人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるのだけれど、例えば「当事者の声」として、「文明的な社会」の「市民」たちに自分たちの声をとにかく伝える、道徳的に「耳を傾けなければならない声」として自らの声を位置づけて（その時には「社会正義」とかいう概念を押し出すこともあるかもしれない）行こうとする方向もその一つだ。また、「うめき声」をそのままではなく、「文明的な社会」の「市民」たちにとって理解可能な言語に翻訳することで異なる言語のあり方（それはすなわち異なる文化のあり方でもある）を提示するというのも一つの方向。その際には恐らく既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を、一度学ばなければならない。一度学んだものを切り崩して、現状では「論理的」とされている言説に対する新しい「論理」を打ち出す必要があるのだ。どのような論理を打ち出すかと言えば、やはり人それぞれ優先順位や問題意識によって異なる。 ボク個人としてもそうだし、恐らく理論的な作業をしているクィア関連・フェミ関連の人たちもそうだと思うのだけれど、基本的には「うめき声」の翻訳の試みが重要な位置を占める。現在ある権力構造を改変するために、それの基盤であり同時に結果であるような言語体系に一度身を投じることでそこにある語彙を再利用して、その再利用のプロセスで「ずれ」を生じさせ、文化的規範に抵抗する。例えば「女は子を産む→だから女は子を育てる」という論理は「→」の部分にとんでもない飛躍があるわけで、そういう現存する文化的規範を切り崩すために、「女は子を産む→だから男が子を育てる」という文章を作ってみたらどうか。この第二の文の「→」には、第一の文の「→」と同レベルの飛躍があるが、だからこそそもそも第一の文の「論理性」というのも、唯一の正しい論理ではなく、可能な「飛躍」のうちの１つでしかなかったことが明らかになる。しかしこういった試みをするためには「女」「男」「子」「産む」「育てる」などと言った諸語彙（とそれらに付与された意味）を一度受け入れなければならない。 このように見ていくと、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を（唇を噛み締めながら）一度学び、工夫して何らかの抵抗をしようとしている者たちの発言と、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を（にこやかに）利用して自らの権力や特権を保持しようとしている者たちの発言の間には、あまりにも重要だが、あまりにも小さくて見えづらい差がある。「言葉を持つ」ことは権力的である、という発言が、しかしどういう意味で発せられる言葉なのかと考えなければいけない。それは、これまで「野蛮な無法者」と思われて来た者たちの抵抗の言葉を検閲するために発せられているのか（意図ではなくとも、効果的に検閲してしまうことは頻繁にある）、あるいはこれまで「文明的な社会」の「市民」と思われた来た者たちの特権保持のために発せされる言葉を「告発」するために使われているのか。 黙っていれば「野蛮な無法者」は死ぬ。「死ぬ」というのは必ずしも物理的な死を意味しないけれど、時として本当に物理的な死へと促されることもある。虐殺だったり、ヘイトクライム、自殺、摂食障害、不十分な医療サービスなど、リアルな死が「野蛮な無法者」を待っている。しかしだからと言って、語る言葉を学べば死から免れるかと言えば、そうでもない。言葉を使っても死ぬことはよくある。例えば去年あたりにカリフォルニアの学校で女性的なジェンダー表現をし始めた男子学生がコンピュータルームで他の学生に銃殺されたように。ある表現が更なる暴力の引き金になることはある。しかし発話することに少しでも抵抗の機会が見いだせるのであれば、つまり生き抜く可能性が発話することでしか切り開かれないのであれば、私たちは発話するしかない。黙れば死。喋っても死ぬかもしれない。でも死なないかもしれないのは、発話した時だけなのだ。 「わたしには言葉しかない」場合、その者の言葉を検閲することはマジョリティによる更なる抑圧である。「うめき声」も聞きたくなければ、「うめき声」が聞こえてしまった時にそれが解釈出来てしまうという恐怖をも払拭したい、という願望は、裏切られなければならない。その願望に突き動かされて「お前たちの言っていることは屁理屈だ」と言う人は多い。しかし自分の理屈だけが「理屈」で、マイノリティが理屈を言い出したら「屁」扱いをするのは、単なる願望の発露でしかなく、その際にいかに「理屈」そのものが、つまり言語体系や論理性そのものが権力性を帯びたものであると「告発」した気になっても、それは単なる「検閲」でしかない。 そして「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と、中立的な装いで物事を「冷静に」判断しようとする者は、検閲と告発の重要な差異を見落としている。そして何よりもそこで見落とされているのは、そのように「中立」かつ「冷静」な判断が出来ると思っている本人の権力性である。しかも、「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と言い出す者は、たいていの場合、その場で一番の権力を持っている。あたかも「告発」と「検閲」の両方を同時に行っているように見えなくもないが、しかし殆どの場合こういう人は「告発」だけを行うことはしない（注２）。「野蛮な無法者」が唇を噛み締めながら言語を学び、マジョリティに理解可能な言語を使って苦情を申し立てた時にだけしゃしゃり出て来て、権力性について言及したりするのだ。そういう場合、結局そこで行われているのは検閲でしかない。結局、既存の権力構造が温存されても何も困ったりしない者だからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。黙っていれば負けが確実な者が何とか生き抜くために死にものぐるいで獲得した言語（や論理性）を、「屁」としか思わないからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。 確かに言葉は権力性を帯びているし、暴力的にもなりうる。しかしだからこそ、現在の社会状況がどのような言語に正当性を見いだしていて、どのような言語に「うめき声」というレッテルを貼っているか、その暴力をまず見ないことには、言葉の権力性について何も考えていないのと同じである。 注１：例えば id:macska さんの[http://macska.org/article/102:title]にあるような「アジア系・太平洋諸島系」という人種カテゴリ。また、「アジア系」とか「黒人」といった言葉がアメリカで使われるときとヨーロッパで使われる時に、それらの言葉で指し示されている人々が必ずしも同じではないことも重要。 注２：そういうことを普段からしている人なんかは、たまに「喧嘩両成敗」的なことを言い出しても、ある程度信頼してもらえるしね。<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=greatjapan.wordpress.com&amp;blog=3249862&amp;post=266&amp;subd=greatjapan&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>言葉を持つこと、すなわちある程度の語彙と論理性に関する能力の訓練が可能な機会に恵まれた人生を一定期間過ごしたことがあるということは、やっぱり権力性を帯びないわけがない。そんなことは当たり前で、だからもちろん言葉を持つことというのは、特にその言葉が歴史的・社会的に権力を持っている／持って来たような文化のものであるとき、暴力的になり得るし、その取り扱いには注意しなければならない。しかもそれは西洋中心的な学問の言語であったり、あるいは啓蒙主義的で道徳的な語彙や定義であったり、色んな形態を取る。<br />
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言語は文化と密接に結びついているから、例えばある種類の「人種」を名指す言葉があったとき、それはその語彙を用いる文化における「人種」という概念そのものの見方を反映しているし（注１）、同時にその語彙によってその概念自体が再生産されたり強化されているだろう。ある時代になって初めてある特権的な領域（例：医学、法学）から新たな語彙が発明され、それが流通することで、世界の風景が変化することも多々ある。例えばセクシュアリティに関しては、それ自体が近代西洋医学によって発明された概念であり、それ以降西洋文化に影響を受けて来た社会においてはセクシュアリティが人を分類する一つの基準として採用されている。またあるいは「人工物」と「自然」を分ける考え方も、山々や木々、湖畔や昆虫などの風景を見る目をある程度枠付けしているだろう。</p>
<p>だから言葉は無力ではない。物理的な暴力の前には言語など役に立つわけがないという考えは、しかし何を「暴力」とするのかという言語的な問題を抜きに短絡的に同意してはならない種類のものだ。なぜなら、言語使用者を屈服させて物理的な暴力にものを言わせる行為というもの自体が、時に「文明的な社会（言語を使用し、理性によって統制されているような人々の集団）」に対する「野蛮な無法者（まともな言語を話さず、狂気に満ちた人々の集団）」という脅威、という枠組みで捉えられるからだ。そのように境界付けされた「無法者」たちは、まともな言語を話さないとされているのだから、どんなに声を届けようと挑戦しても、単なる狂者の「うめき声」としか解釈されない。だから「文明的な社会」に住む人々にとって本当の脅威は「野蛮な無法者」による物理的な暴力ではない。本当に彼ら彼女らが恐れているのは、「野蛮な無法者」の「うめき声」が実際に意味をなしてしまう瞬間である。</p>
<p>「野蛮な無法者」にとって、たとえどれだけ「野蛮な無法者」というのが不当な名付けであったとしても、それに対して不当性を訴えて名付けを拒否することは不可能である。それは、もちろん「まともな言語の話せない者には語彙の問題について意見など出来るわけがない」という文化的な信条／命令があるからであり、それと同時に、「野蛮な無法者」という呼びかけに応えないと決めた瞬間その者は、一切の語彙からはじき出されてしまうからだ。「野蛮な無法者」という名は、不当な名でありながら、同時にそこで名付けられている者にとっての唯一の名であり、それを使わずして世界に自分の存在を表明することすら出来ないような種類の名なのである。だから「野蛮な無法者」は、言語を捨て去ることが出来ない。どれだけその言語が彼あるいは彼女に不当な名付けを強いていようと、どれだけ不当な位置性を強いていようと、例えばサタンの肌の色がネガティブに「黒」と象徴づけられているからと言って「黒」という言葉を捨ててしまったら、たちまちサタンの肌の色を表す言葉がなくなってしまうのと同じように、「野蛮な無法者」「として」でもいいから存在しなければならない、という切実な（しかし仕組まれたデキレースのような）踏ん張りが、彼女あるいは彼を土俵際に留まらせているのだ。</p>
<p>しかしなぜそもそも彼あるいは彼女が、気づいた時には既に土俵際に追いつめられていたのかを考えなければいけない。「野蛮な無法者」は「野蛮な無法者」に生まれるわけじゃないが、誰が「野蛮な無法者」とされるか、あるいは、どの者の声が「うめき声」とされるかということに関しては、その者が生まれる前に文化的な規範によってある程度決まっている。この文化的な規範というのは多くの場合専門的な語彙に支えられており、例えば「東洋」、「同性愛者」、「黒人」など、「科学的」とされる語彙がそういった役割を担って来た。他にも「テロに屈しない」だとか「自己責任」、「フェミナチ」なんていう語彙も、その言葉が使用される文脈にある文化的な規範を反映するし、同時にそれらの規範を再生産する。</p>
<p>じゃあ「野蛮な無法者」側に配置されてしまっている者にとって、その配置を完全に拒否することがすなわち自身の存在の無化を意味するのだとしたら、どんな抵抗が可能なのだろうか。それは、新しい語彙や定義を文化的状況に投入して行くことでしかない。例えば &#8220;Black Is Beautiful&#8221; とか &#8220;womyn&#8221; とか &#8220;queer&#8221; とか &#8220;<a href="http://eminism.org/fliers/index.html">Lame is Good</a>&#8221; と言うことで既に存在する語彙に新たな意味を付与しようとする運動に見られることであり、また一方で現状では関連して考えられていない語彙を結合させたりすることにも見られる（例：「ホモは普通」）。どのような語彙をどのように改変するかというのは人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるので、例えばある人にとって有効だと思うやり方がまたある人にとっては問題を更に深めると感じられる場合もある（例：「ホモは変態です」と言って「変態」という言葉の改変を目指す方向と「ホモは普通です」と言って「ホモ」という言葉の改変を目指す方向は、共有出来る思想があるにせよ、どこかで矛盾せざるを得なかったり）。</p>
<p>しかしこういった言語自体に介入することで行う抵抗は、しかし、大体の場合すぐには成功したりしない。そもそも「まともな言語を話さない」者たちのそういった試みは、「語彙の誤用」だとか「文法エラー」だとか言われて無視されたり、検閲されたりするのだ。だからそこには練り上げられた戦略が必要になる（本来そんな戦略を練らなければいけない謂れは一切ないのだけれど）。どんな戦略を採用するかというのは、やはり人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるのだけれど、例えば「当事者の声」として、「文明的な社会」の「市民」たちに自分たちの声をとにかく伝える、道徳的に「耳を傾けなければならない声」として自らの声を位置づけて（その時には「社会正義」とかいう概念を押し出すこともあるかもしれない）行こうとする方向もその一つだ。また、「うめき声」をそのままではなく、「文明的な社会」の「市民」たちにとって理解可能な言語に翻訳することで異なる言語のあり方（それはすなわち異なる文化のあり方でもある）を提示するというのも一つの方向。その際には恐らく既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を、一度学ばなければならない。一度学んだものを切り崩して、現状では「論理的」とされている言説に対する新しい「論理」を打ち出す必要があるのだ。どのような論理を打ち出すかと言えば、やはり人それぞれ優先順位や問題意識によって異なる。</p>
<p>ボク個人としてもそうだし、恐らく理論的な作業をしているクィア関連・フェミ関連の人たちもそうだと思うのだけれど、基本的には「うめき声」の翻訳の試みが重要な位置を占める。現在ある権力構造を改変するために、それの基盤であり同時に結果であるような言語体系に一度身を投じることでそこにある語彙を再利用して、その再利用のプロセスで「ずれ」を生じさせ、文化的規範に抵抗する。例えば「女は子を産む→だから女は子を育てる」という論理は「→」の部分にとんでもない飛躍があるわけで、そういう現存する文化的規範を切り崩すために、「女は子を産む→だから男が子を育てる」という文章を作ってみたらどうか。この第二の文の「→」には、第一の文の「→」と同レベルの飛躍があるが、だからこそそもそも第一の文の「論理性」というのも、唯一の正しい論理ではなく、可能な「飛躍」のうちの１つでしかなかったことが明らかになる。しかしこういった試みをするためには「女」「男」「子」「産む」「育てる」などと言った諸語彙（とそれらに付与された意味）を一度受け入れなければならない。</p>
<p>このように見ていくと、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を（唇を噛み締めながら）一度学び、工夫して何らかの抵抗をしようとしている者たちの発言と、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を（にこやかに）利用して自らの権力や特権を保持しようとしている者たちの発言の間には、あまりにも重要だが、あまりにも小さくて見えづらい差がある。「言葉を持つ」ことは権力的である、という発言が、しかしどういう意味で発せられる言葉なのかと考えなければいけない。それは、これまで「野蛮な無法者」と思われて来た者たちの抵抗の言葉を検閲するために発せられているのか（意図ではなくとも、効果的に検閲してしまうことは頻繁にある）、あるいはこれまで「文明的な社会」の「市民」と思われた来た者たちの特権保持のために発せされる言葉を「告発」するために使われているのか。</p>
<p>黙っていれば「野蛮な無法者」は死ぬ。「死ぬ」というのは必ずしも物理的な死を意味しないけれど、時として本当に物理的な死へと促されることもある。虐殺だったり、ヘイトクライム、自殺、摂食障害、不十分な医療サービスなど、リアルな死が「野蛮な無法者」を待っている。しかしだからと言って、語る言葉を学べば死から免れるかと言えば、そうでもない。言葉を使っても死ぬことはよくある。例えば去年あたりにカリフォルニアの学校で女性的なジェンダー表現をし始めた男子学生がコンピュータルームで他の学生に銃殺されたように。ある表現が更なる暴力の引き金になることはある。しかし発話することに少しでも抵抗の機会が見いだせるのであれば、つまり生き抜く可能性が発話することでしか切り開かれないのであれば、私たちは発話するしかない。黙れば死。喋っても死ぬかもしれない。でも死なないかもしれないのは、発話した時だけなのだ。</p>
<p>「わたしには言葉しかない」場合、その者の言葉を検閲することはマジョリティによる更なる抑圧である。「うめき声」も聞きたくなければ、「うめき声」が聞こえてしまった時にそれが解釈出来てしまうという恐怖をも払拭したい、という願望は、裏切られなければならない。その願望に突き動かされて「お前たちの言っていることは屁理屈だ」と言う人は多い。しかし自分の理屈だけが「理屈」で、マイノリティが理屈を言い出したら「屁」扱いをするのは、単なる願望の発露でしかなく、その際にいかに「理屈」そのものが、つまり言語体系や論理性そのものが権力性を帯びたものであると「告発」した気になっても、それは単なる「検閲」でしかない。</p>
<p>そして「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と、中立的な装いで物事を「冷静に」判断しようとする者は、検閲と告発の重要な差異を見落としている。そして何よりもそこで見落とされているのは、そのように「中立」かつ「冷静」な判断が出来ると思っている本人の権力性である。しかも、「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と言い出す者は、たいていの場合、その場で一番の権力を持っている。あたかも「告発」と「検閲」の両方を同時に行っているように見えなくもないが、しかし殆どの場合こういう人は「告発」だけを行うことはしない（注２）。「野蛮な無法者」が唇を噛み締めながら言語を学び、マジョリティに理解可能な言語を使って苦情を申し立てた時にだけしゃしゃり出て来て、権力性について言及したりするのだ。そういう場合、結局そこで行われているのは検閲でしかない。結局、既存の権力構造が温存されても何も困ったりしない者だからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。黙っていれば負けが確実な者が何とか生き抜くために死にものぐるいで獲得した言語（や論理性）を、「屁」としか思わないからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。</p>
<p>確かに言葉は権力性を帯びているし、暴力的にもなりうる。しかしだからこそ、現在の社会状況がどのような言語に正当性を見いだしていて、どのような言語に「うめき声」というレッテルを貼っているか、その暴力をまず見ないことには、言葉の権力性について何も考えていないのと同じである。</p>
<p>注１：例えば id:macska さんの[http://macska.org/article/102:title]にあるような「アジア系・太平洋諸島系」という人種カテゴリ。また、「アジア系」とか「黒人」といった言葉がアメリカで使われるときとヨーロッパで使われる時に、それらの言葉で指し示されている人々が必ずしも同じではないことも重要。</p>
<p>注２：そういうことを普段からしている人なんかは、たまに「喧嘩両成敗」的なことを言い出しても、ある程度信頼してもらえるしね。</p>
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