クィア理論は役立つ理論?

クィア理論とは何?それは一体、何に役に立つのか?

クィア理論が問い対象とするようなセクシュアル・マイノリティーズやそのアクティヴィズムからこのような問いが投げかえされる。このような問いは、クィア理論は、現在彼/女らが望むような回答を提供したり、彼/女らに何らかの役に立つべきだという尤もな前提がある。だが、もし私がこの問いに答えるのならば、おそらくそれは彼/女をがっかりさせるものになるだろう。

クィア理論を医者に例えるならば、患者に役立ち患者の求める治療をすぐに行う医者が「良い」医者だとすると、クィア理論は明らかに「悪い」医者であり、ある意味「残酷」な医者である。なぜなら、患者の苦痛を敏感に察知しながらも、鎮痛剤を投与したり、その患部の処置を早急に行おうとしないからだ。

クィア理論は、人々の苦痛への理解を試み、表現する言葉を模索する一方、それをそのひと個人の問題とするのではなく、歴史化したり、その人とは直接には何も関係のないような文化事象や社会や政治に接合し、その人自身が抱える固有の問題を残酷にも一般化してしまう。また、それだけではなく、その人の苦痛に対してはその苦痛をその場で癒そうとするのではなく、そこからの反省とその人や社会の変化を通して苦痛を和らげたり、苦痛を快楽にさえ変えてしまおうとさえする。その意味では、クィア理論の処置は、安易な投薬に頼らず長い時間と多くの費用のかかる精神分析のそれ、または長い時間をかけながら体質改善をすることによって痛みを和らげようとする東洋医学のそれに似ている。ただし、クィア理論は、正常な状態、健康な状態という「治療」の前提やゴールさえも疑問に付してしまうのだが。

私はクィア理論にはこのようなある種の「残酷さ」が必要であるとさえ思っている。このような残酷さを正当化する理由はお決まりの文句である。

それは、人間の変化の可能性の肯定と、変化への信仰にも似た信頼である。そして、ある苦痛に固執してしまうことによって私たちがその苦痛に縛られてしまうことの警戒。苦痛への対処としての鎮痛剤から鎮痛剤の依存症になってしまうように、アイデンティティ・ポリティックスや政治へのある仕方でのコミットメントが新たな抑圧や弊害を生んでしまったことの痛烈な反省。

クィア理論が自身の前提とする人間や社会のラディカルな変化の可能性が実際にあるのか、ないのかという問題は、もちろん私たち自身がそれを信じ実際に試みることを通してしか知ることはできない。私たちがその答えを知るには、おそらく長い時間がかかるだろう。そういう意味で、クィア理論は効率性と実用性が重んじられる現在では反時代的な存在である。たとえ、一見、それが現在どんなにファッショナブルな存在であるとしてもである。

クィア理論とは何か、それは一体、何に役に立つのかというクィア理論に向けられる苛立ちに満ちた問いは、当然であり、理解されるべきものである。しかし、たとえその問いに対する答えが多くの人々を失望させるものだったとしても、それはクィア理論が不要であることを意味しない。たとえ少数でも、そのような理論が必要な人々がいるならば、それを学びたいという欲望を持つ人々がいるかぎり、ある仕方でそれは存在すべきだし、その存在は尊重されるべきである。そのような少数の欲望の肯定こそ、セクシュアル・マイノリティーズの運動が主張し、実現しようとしてきたものに他ならないだろう。

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