ひろこさんには借りがある

『ハートをつなごう』というNHKの番組シリーズで昨日放送されたのは、障害をもつこととLGBTであることの両方がどのように重なるのかについてだった。それを見て、まず感想として持ったのは、「差異を認め、それを祝福することに、どうしてそんなに『幸福』が重要になってるんだろうか」というものだった。ひろこさんはVTRにも登場し、スタジオでメインゲストとしてインタビューを受けた、脳性麻痺を持つトランスジェンダー女性だ。彼女は番組中頻繁に「幸せそう」とか「かわいい人」と言われ続け、「やりたいことをやってる」強い心を持った人のような扱いばかりを受けた。でももし彼女が憂鬱な人だったら? 実際彼女が憂鬱な日々を送っていたことは、番組からも明らかだ。
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「わたしには言葉しかない」場合——告発と検閲

言葉を持つこと、すなわちある程度の語彙と論理性に関する能力の訓練が可能な機会に恵まれた人生を一定期間過ごしたことがあるということは、やっぱり権力性を帯びないわけがない。そんなことは当たり前で、だからもちろん言葉を持つことというのは、特にその言葉が歴史的・社会的に権力を持っている/持って来たような文化のものであるとき、暴力的になり得るし、その取り扱いには注意しなければならない。しかもそれは西洋中心的な学問の言語であったり、あるいは啓蒙主義的で道徳的な語彙や定義であったり、色んな形態を取る。
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[video] ジュディス・ハルバースタム教授によるミニ講演 “Queer Faces from Lost Times”

2009年11月28日に国際基督教大学のLGBITサークル、シンポシオンが南カリフォルニア大学のジュディス・ジャック・ハルバースタム教授を招き、「大学で Queer Studies を学ぶこととは」のタイトルで交流をしました

教授が行った、クィア性、写真、そして真実性といった問題についてのスライドショーの様子をスタッフが録画してくれたので、ご覧下さい。計6つのビデオにわかれています。(ボクは司会やってます・・・)

ちなみに字幕は年明けまでには完成させます。


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「カムアウトできる」「カムアウトできない」というレトリックの問題

この記事は、インデペンデント・マガジン Pe=Po vol.1 に掲載されたものの全文です。ネットからも購入出来ますので、他の記事も気になるという方はどうぞ買ってみて下さい。

「親にカムアウトしたいけどまだ経済的に独立もしていないし……」、「友達はみんな知ってるけど、会社では絶対にカムアウトなんて出来ない……」、「同級生の数人にはカムアウトしてるけど、信頼出来る人だけ。他の人には絶対に言えない」などなど、カミングアウトにまつわるエピソードはボクたちのコミュニティに溢れている。それに対して老婆心を働かせたゲイやレズビアン、バイがこう言う。「誰彼構わず言う必要はない。自分がいいと思った相手に、いいと思ったときにだけカムアウトすればいいんじゃない? 人それぞれ事情があるしね」と。
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わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム

この記事は2010年1月20日に WAN (Women’s Action Network) のサイトに掲載された「【ライブ中継への反響・その1】わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」という記事の全文です。[元記事 @WAN]

本文

「一般の人にわかりやすい言葉で話して下さい」と言われる経験は、私たちフェミニストには日常茶飯事だ。そう言われるたびに私はその言葉に憤りを感じ、口をつぐむ。時には相手に噛み付くこともあるけれど、そこまでして相手に分かってほしいと思っているかというとそうでもない。何が頭に来るのかと言ったら、それはフェミニズムに「わかりやすさ」を求め、「わかりやすくないなら私はそれに賛同しないぞ」と、言外にほのめかす態度なのだと思う。そしてまた、自分がわからないということを「一般の人」という安易なカテゴリーを使って、あたかもかれらを代弁しているかのような振る舞いで当然のように開き直っている様子も、苦手だ。「一般の人」とはいったい、誰のことを言っているのだろう。

「主体がどうとかいう話には興味がないんですよね」とか、「そういう議論に何か意味があるんですか?」とか、あるいは「それは一般の女性の役に立たない理論だと思います」とか、そういうことを言われると、抽象的な議論はどこかに隠居して細々とやっていきたいものだわ、と思ってしまうのだけれど、しかしそれでも私にとってのフェミニズムは、誰かにとって「興味がない」ものだったり、「何」も「意味が」ないようなものだったり、「一般の女性」とやらにとって「役に立たない」ものであったとしても、私の人生や家族、友人の人生にとって重要だと思ってやっていることだ。たとえそれが他のフェミニストから拒絶されたとしても。

私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムとクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。フェミニズムは必ずしも異性愛女性のことだけを考える思想ではないし、クィア理論は必ずしも同性愛者やトランスジェンダーのことだけを考える思想ではない。両者の射程は思ったよりも広く、そして互いに裏切りつつ、協力し合い、反目しつつ、アイディアを盗み合う。その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。私のフェミニズムはそういう人たちの利益のためにあるのではないし、そういう人たちに「わかりやすい」言葉で説明するような義理も、動機も一切ない。むしろある種のマジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。

フェミニズムは、あるいは、私が信じ、惹かれているタイプのフェミニズムは、「一般」に迎合したりしない。これまでも私の尊敬するフェミニストたちは、一般を挑発するような言葉を作り出したり、反感を買いやすい主張やパフォーマンスをしたり、そして案の定強い反発を受けて来た。その1つ1つのやり方や戦略、その成果に関しては評価が分かれる所だし、私も必ずしもそれら全てに同意するわけではないが、それらの行動の背後にある情熱のようなものには敬意を表したいと思っている。

その点で「おまんこシスターズ」という言葉を打ち出した上野千鶴子氏、多くのフェミニストに総スカンを食らってもテレビで話し続け、世間から罵倒や攻撃を受けて来た田嶋陽子氏、社会に既に受け入れられている言語をずらす実践として “womyn” や “grrl” といった言葉を積極的に使って来たアメリカのフェミニスト(の一部)など、多くのフェミニストの態度を、その評価は横に置いておくにしても、私は尊敬する。

しかし先日の WAN x ジェンダーコロキアムの共催イベント、「男(の子)に生きる道はあるか?」において、私はまたもや、絶望することになった。「男性に通じるフェミニズム」を提示したい、「男子に楽になってもらいたい」という澁谷知美氏、「男性への理解と愛情を基に」本を書き、それに「反発が驚く程なかった」ということを嬉しそうに語る両氏。

もちろん世の中を変えようというときに、特に社会政策を変えようというときには、多くの人の賛同を得る必要がある。しかしフェミニズムが容易に「一般」に受け入れられるとき、それは必ずしもフェミニズムの思想の発展や広がり、普及を意味するとは限らない。「一般」受けする思想には、常に危険が伴う。それはジュディス・バトラーがお茶の水女子大学に講演にやって来たときに、彼女の文章は難解でエリート主義に陥っているのではないかという質問に対する返答として、抵抗なしに受け入れられる言説はつまり現状既に社会に織り込み済みの言説であって、それでは理解可能性の領域の拡大を狙うことはできないと言っていたこととも共鳴する。

私もまた、2008年に NWEC でワークショップを開く際、前日の打ち合わせにたまたま同席した方に言われたことがある。「そんなに難解な議論をしたのでは、理解を得られない。理解されたいのでしょう? だったらもっと一般向けの話し方をしなくては」と。

確かに、単純なことをわざわざ言葉をこねくり回して難解にする必要はないし、そんなパフォーマンスは私も嫌いだ。しかし、そもそも「一般的」とされるような現存の言語を用いて語ることは、正にその言語が同性愛嫌悪的でトランス嫌悪的で女性蔑視的であるときに、ほとんど不可能なのである。その点において私は既にある程度語る言葉を制限されているのであり、更にそれを「一般向け」に翻訳せよというのは、二重の暴力を行使することを意味する。

過去十数年のあいだクィア運動の中で培われて来た言語、更に言えば過去1世紀(あるいはそれ以上)のあいだフェミニストたちやゲイ・レズビアン運動の担い手が紡ぎだして来た言語、黒人解放運動や障害者運動がなんとかして、あらゆる言葉をつなぎ合わせ、作り出し、また本来の意味から引き剥がし自らの言葉に変えて来た言語。それらは、私たちが日常を生き延びるために、私たち自身の人生をよりよく理解し、よりよいものにするために、日々の実践の中から生み出された言語である。私は、あらゆる理論はそのように作り出されたと思うし、またそうではない理論には魅力を感じない。わかりにくいフェミニズムこそ、私の理解可能性の領域を広げてくれるし、社会の変化への希望を感じさせられる。

だが、澁谷氏の、そして時に上野氏の今回のイベントにおける発言には、絶望しか感じられなかった。「女子も辛いが、男子も辛い」という澁谷氏の発言は(それが実際に現実を反映していることは確かだが)あまりに迎合的だと思うし、「女というところから出発して、ジェンダー規範に縛られた人間を対象にし、更にそれを男にもおろしていく」実践としての『平成オトコ塾』も、その実証研究としての評価は横に置いて言えば、なぜそんなことをする気になったのかと不思議でしかたがない。それは、上野氏の「男性への愛」という話にも感じたことだが、何よりも「なぜ、フェミニズムがずっと批判し、拒否すべく尽力して来たような『母』の位置を、自ら体現してしまっているのだろう」という疑問が頭をよぎる。

上野氏は他にも、フェミニズムを「おばさん」の言説であるとし、男受けのする「娘さん」を降りて「おばさん」になる実践とフェミニズムを接続している。しかしそもそも「娘さん maiden 」と「おばさん crone 」とを分けるジェンダー規範を批判して来たのは、紛うことなきフェミニズムではなかったか。フェミニズムの歴史的蓄積はどこに行ってしまったのか。

新春企画ということで大々的に宣伝もして、ネット中継までして、録画したものをアップロードまでして、これが2010年段階の日本のフェミニズムの集大成なのかと思うと、絶望しか感じられないのは仕方がない。ただ、これが日本のフェミニズムを代表するわけではない、代表させてはならないということを私たちは肝に銘じて、フェミニズムの実践をして行かなければならないだろう。絶望ばかりもしていられないのだ。

上の記事を WAN サイトに投稿しようと思ったきっかけ

[元記事 @フェミニズムの歴史と理論]

先日 WAN (Women’s Action Network) の「よみもの」欄に寄稿したところ、早速受理され、今日既に掲載してもらっているようだ(すんげー早い!)。タイトルは「わかりやすいフェミニズム、わかりにくいフェミニズム」というもので、 1/13 に行われたジェンダーコロキアムと WAN の共催イベント『男(の子)に生きる道はあるか : 新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美』の映像を観ての感想を書いた文章。ちなみにその映像はここをクリックするとアクセス出来ます

よろしかったら他の方が書いている感想もどうぞ。(順番はアップされた順、たぶん)

そもそもボクは WAN の問題については積極的にネット上で何か言うつもりはなく、個人的なブログにしろこの「フェミニズムの歴史と理論」サイトにしろ、一切文章をアップするつもりはなかった。それは、そもそも動画の内容が脳天を突き破るような、あるいはじっくりと時間をかけて肉を溶かす猛毒のような、さもなくばその両方であり、書く気力も出ない状態だったから。 tummygirl さんが先陣を切ってブログ記事にしているのを横目に、「あぁ偉いなあ。そしていい文章だなあ」と涙ぐむだけのあたし。

そんなときに山口智美さんに「っていうかマサキくんって WAN の呼びかけ人? 賛同者? だったよねー」と言われて、固まる。「えー!? あーーー、そうだったかもー!」くらいの記憶力(<研究者志望として、あるいはそれ以前に運動に携わるものとしてダメ)で、見事に忘れていた。ネット上を検索しても当時の呼びかけ人のリストが見つからず、でも確かに智美さんはリストにボクの名前を見たと言うし、呼びかけ人にだけ配信されて来たはずの準備会MLというものも、しっかりメールボックスに届いていた・・・。

「全くもう、バカだなぁ WAN は(笑)」くらいで、後はもうスルーしようと思っていたのに、何と自分が呼びかけ人として参加している団体だったなんて! という驚き、というかもはやショックで、これはもう、呼びかけ人として賛同した者の責任として何かしないわけにはいかないだろうと思った。

今でもボクは WAN はつぶれればいいとか破綻しちゃえばいいとか、あるいは存在を忘れられてしまえばいい(プレゼンスが下がればいい)とか、そういう風には思っていない。使い方次第でいかようにも使えると思うし、リソースが集まっているのはある意味では有益なこともあるだろう。その分例えば、アマゾンのアフィリエイトを使っている B-WAN のように、リソースをこぎれいにスマートにまとめられるシステムを利用しているからこそ、そこからこぼれ落ちる情報(アマゾンに無い本とか、自費出版の冊子とか)が更に周縁化されて行き、作り手も減るという問題はあるけれど。

とにかく当時呼びかけ人になった時のスタンスと、今のそれは、大して変わらない。 WAN に日本のフェミニズム、あるいは日本語話者による/対象のフェミニズムを代表させてはならないし、そういう意味で WAN が大きくなって影響力を持つようになることは避けたい。けれどネットを検索すればとりあえず WAN くらいはひっかかるよ、という程度に、つまりとりあえずのきっかけとして、とっかかりとして WAN に出会う、という程度になって欲しいという希望はあるし、同時に、昔からフェミニズムに関わって来た人たちにとっても、より「使える」リソースになって欲しいとも思っている。ボク自身が今回 WAN に投稿したのは、 WAN におけるそういうリソース作りへの関与を怠って来た自分に対する反省の意味も強い。

もちろん何が「使える」リソースで何が「使えない」リソースなのかというのは議論の余地があるけれど、それはボクが信じる限りのところを、口を挟んで行く(投稿したり、意見したり?というところで)という方法しかないかなと思っている。だからこそ今回は、例えば「 WAN のやったイベントは、異性愛中心主義的だった!」と思っても、呼びかけ人であるボクは外部のブログからそれを批判することは出来ないと感じた。やるなら内部で、つまり WAN のウェブサイト上でやるべきなのだし、恐らくこれまでもやるべきだったのだ。

セクシュアリティと政治がご専門のChalidaporn Songsamphan先生(2009年春特任教授)とポルノグラフィーについて対談しました

この記事は国際基督教大学ジェンダー研究センターの CGS Newsletter 第12号に掲載されたものの日本語訳です。 HTML / PDF

マサキチトセ(CGSスタッフ 以下マ):ポルノグラフィーについての基本的なスタンスを教えてください。

チャリダポーン教授(以下チ):そもそもポルノは性的幻想の一つのあり方として捉えられるべき、プライベートな時間に誰しもが楽しむ権利を持っているものと考えます。しかしポルノを事細かく見た時、そこにはポルノ以外の物事との関連性やポルノそのものの多様性が見られ、ポルノ全体についての基本的なスタンスというものは築けません。ある種のポルノと違う種のポルノには、違うスタンスを持つ事があるのです。私たちは理論や説明を一つ打ち出し、そこに類似の全てのケースを矮小化しようとしがちですがそれではうまくいきません。私たちは全ての物事を個別に見る必要があるのです。

マ:ポルノとその問題点を分析するときは、他の絵画等のアートとその問題点の分析とは違ったアプローチがされるべきでしょうか?

チ:そうは思えません。性というものは私たちの文化において非常に特別な意味を持たされていて、ポルノはとても異質なものと思われていますが、私にはその分け方がいいとは思えない。顔を殴ることとペニスをヴァギナに入れることの違いについてフーコーが例を出していますが、私たちの文化意識が性に特定の位置、意味を与えている為に、これら2つの行動は全く違う意味を持っているのです。

■「ポルノを定義すること」

マ:しかしポルノグラフィーそのものの定義が曖昧ではありませんか。例えばボーイズラブと呼ばれるジャンルがポルノかどうかには共通見解がない。人によってはポルノだと言うでしょう。ポルノと非ポルノを分離することには常に問題がつきまとうと思いますが。

チ:ポルノと非ポルノの境界線は私たちの理解や解釈を通して構築されるもので、流動的です。あるものがポルノかどうかは、私たちがそれをどのように見るかによります。何だってポルノになり得る。

マ:でもそれだと何をポルノと思うかについて様々な定義が錯綜してしまいます。それらの間をネゴシエートするのは可能でしょうか。

チ:まず多様な解釈が存在することを認めることから始めるべきでしょう。キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンは特定の考え方について「これはいい」とか「こうあるべきだ」と指図する傾向にあります。しかしそのように断定的に物事を見たり語ったりするのをやめ、まず私たち自身の間にある差異を認める。そこで初めてそれらの差異とどう向き合って行くかが問題になると思います。

■「国家権力 対 批評」

マ:国家がポルノの流通に何らかの法的な介入をする事については?

チ:問題になるのは、国家がそのようなことをする為には何をポルノとし、それについてどのような介入を行うのかの明確な基準を打ち出す必要があるということです。そしてポルノについてそのように固定化された見方を打ち出すことは、他の解釈の可能性を予め封鎖してしまうことになる。法を持ち出すことの問題点はそこにあります。議論ができず、ネゴシエーションもできない。なんて危険な社会でしょう。人々は、性を社会的な活動の一つとして自由に語れるようになるべきです。議論の余地を残しておく必要があるのです。

マ:では個人として表象上の不正義に対抗するにはどうすれば?

チ:最も重要なのは、ある現象について意見や批判があれば、それを口に出すことです。表現の自由を尊重しているからといって、ポルノについて一切口を挟めないというのは間違っています。作品全体ではなくある一部について批判がある場合もあるでしょう。児童ポルノに関しては、合意に基づかない性行動への批判をしている人がいます。もし彼らの考えに同意出来ないのなら、どうして同意出来ないのかをきちんと論理で説明して対抗する必要があります。

■「児童ポルノとフェミニズム」

マ:今日の反児童ポルノの動きと、マッキノンやドウォーキンが行った反(異性愛)ポルノ運動の違いは何なのか不思議でなりません。「児童ポルノとフェミニズム」というタイトルでCGSNL011号に投稿した記事で、児童ポルノの問題について私たちは安易に法的な解決を急いでいるのではないかという懸念を描きました。ドウォーキンやマッキノンの考えに多くの人々は「ポルノに問題なんてない」と反論しましたが、児童ポルノについて同じように言う人は目立ちません。児童ポルノは何がなんでも悪いに決まっている、と自分たちの考えをきちんと吟味するのを怠っているように思います。表象というものが問題なのか否か、きちんと考える必要があると思うのです。

チ:そうですね。しかしこの問題はもう少し丁寧に見る必要があると思います。児童ポルノの存在は多くの中産階級の人々をいらだたせます。というのも、中産階級的な性の価値観によれば「子ども」は無性であり、純粋で性的に清く、ゆえに成長するまでは守られるべきものだと思われています。それは単なる神話ですが、例えば法律においても大人による児童虐待を防ぐという名目の下で提案されたものの多くが立法化されて来ました。しかし「子ども」というカテゴリーをどのように定義しているのかについて、私たちは反省的な思考をあまりせずに来てしまっています。フェミニズムは「女」というアイデンティティ・カテゴリーがそもそも信用出来るものではなかったのではないかという議論が出る程に内外から批判を受け、疑問視されて来た歴史を持ちますが、「子ども」というカテゴリーをどのように「大人」から分離して定義出来るのかという疑問も同様に出るべきなのです。実際この問題については明確な定義や指針はありません。ですから児童ポルノや児童虐待について語るとき、議論が錯綜し、皆の意見がバラバラになることがありますが、その原因は「子ども」というカテゴリーのイメージが各自異なっていることにもあるでしょう。このように細かな部分にまで議論を進めることは中産階級の人々には恐怖体験となるでしょうが、だからこそ政策や法を通すときに中産階級の人々に「これは子どもたちのためだ」とアピールすれば、非常に通り易くなるという現状があるのです。

マ:ミーガン法やカリフォルニア州のジェシカ法などもその例ですね。ところで児童虐待と聞いていつも思い浮かぶのは、1890年代にあった「夫が求めたとき妻は常に性的に奉仕しなければならない」という米国法です。児童ポルノを禁止しようという考えの背景には大人・子ども間の権力差についての憂慮があると思うのですが、では男女間に非常に大きな権力差があった当時、男性は女性とセックスをしてはいけないという法律が出来るべきだったのでは?

チ:大人と児童の権力差というより、合意可能性が問題なのでは?

マ:しかしその権力差によって「子どもは合意出来ない」と結論するのなら、厳しい男女差別下の女性もまた合意可能性は低いです。

チ:確かにリベラルな論者や哲学者たちは女性が合意可能性を持っているとはあまり思っていませんでした。例えばジョン・ロックは、女性と子どもは理性的な能力がなく、ゆえに男性である世帯主によって代表されるべきだと言っています。彼らリベラルな論者たちにとってそれが問題としてとらえられなかったのは、彼らがそもそも女性を権利の正当な持ち主であるとは認めていなかったからでしょうね。

マ:興味深い。子どもも女性も共に「未熟・権利ナシ・合意ムリ」と…。

■「性の多様性にYES! が信用できない」

鈴木(CGSスタッフ 以下鈴):それにも拘らず、中産階級の人々は女性を守ろうとはしてこなかった。一体何が違いなんでしょうね…。

チ:結局人々の性についての見方は一貫していないということの現れですよね。特権的な性規範とは合致しないものでも多くのことを人々は受け入れていますが、それでも全然受け入れられていないものがある。性の多様性にYES! と言っている人でも、どんな多様性を念頭においているのか分からない。例えば異性愛ポルノグラフィーを性的幻想の一つのあり方であるとして、それを表現したり消費することの自由を唱える人はたくさんいます。しかしことが児童ポルノになると、そこに自由はないと多くの人々が断定します。私たちはこの矛盾をしっかりと見つめていない傾向にあります。

■「今日のアクティビズム」

鈴:立場の似たお二人ですが、行動を起こす場合のアプローチは…?

チ:もし何か行動を起こすとしたら、マサキさんと私は道を違えるかもしれないし、同じような道を選ぶかもしれない。それは全て扱っている個別の事象に依存しています。今日私が言いたかったことは、人は主張において常に一貫していなければいけないわけではないということです。というのも、ポルノグラフィーを細かく分析すると多様なケースが見つかり、それらが持つ意味も多様であると分かるからです。同じ理論を使ってそれらを一気に分析することは不可能です。ですから検閲には反対していながらも同時に児童ポルノ作品の中で行われることに批判を持つことは可能です。むしろこのような柔軟性こそが今日の社会運動の強みだとも思っています。というのは、互いに同意できるときには一緒に活動し、できないときにはしなくてもよい、あるいは同意できないことをお互いに了解して納得すればいい。この柔軟性は、しかし自分が何を考えているのか、相手と私は何について話しているのかを明確にすることを要求します。例えば「あなたの言う児童ポルノとは、何のことですか?」と聞いて、もし同じことを話していると思っていても実はそうではなかったことが分かったら、それを明らかにすることが重要です。

鈴:第3回子どもの性的搾取に反対する世界会議や反児童ポルノ団体も団結して見えますが、理解が一致しているか分かりませんね。

チ:政治的なアクティビズムを行うときは内部の差異を抑圧していることもあります。しかしその場合でも実際に法律を立ち上げようとする際には結局差異が顕在化してしまうものなのです。法は多くの議論を生み出しますから、彼らの考え方が強固になり明確になればなるほど、彼らは互いに闘わざるを得なくなる。その段階になれば、彼らの中の差異は外部から見ても一目瞭然のものとなるでしょう。

マ:とても楽しかったです。貴重な時間をありがとうございました。

チ:こちらこそありがとうございました。

児童ポルノとフェミニズム

この記事は国際基督教大学ジェンダー研究センターの CGS Newsletter 第11号に掲載されました。 PDF

第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)は、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針を採択した。多くの国は既に、成人と児童の権力差から考えて「同意の上」ではあり得ないため、性的搾取や暴力から児童を守るために児童ポルノの生産及び販売を禁止している。しかし今回の方針は監視を強め、実写でない児童ポルノの単純所持をも違法化するものだ。背景には、実際に児童の関与がなくても児童ポルノは人々の児童を見る目を変え、その広範な普及は児童のイメージを極度に性的なものへと至らしめるだろう、という考えがある。即ち、合意の成り立たない行為で児童が実際に受ける身体的・精神的苦痛だけでなく、間接的であれ自体が実際の児童に苦痛をもたらす、ということだ。

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、男性異性愛者向けに作られた…つまり殆どのポルノは、単に社会の男女権力差を反映するだけでなく、貶めるように女性を描いたり、更に言えば「欲望の灌漑水路」とでも呼びたいものを作り出すことで、社会の男女権力差を維持・強化する働きも持っていると論じた。「クィア」なフェミニストとして私は、逸脱的だろうが抑圧されていようが全ての欲望が尊重されるべきだと考える一方、クィアな「フェミニスト」としては、同性愛・小児性愛やその他の欲望へ、そして最も頻繁には異性愛へと欲望を灌漑する、その「欲望の灌漑水路」により関心がある。その灌漑システムの内部では、ジェンダー・人種・民族・年齢・階級・外見・障がいの有無などの既存の権力構造に則った差異の表象が複雑に絡み合っている。しかし、社会的不正義に(必ずや)依存してしまう類の欲望のあり方が「間違い」だと言いたいのでも、そんな欲望を持つ人々を攻撃したいのでもない。実際、同性愛や小児性愛など周縁に追いやられているような欲望でさえ、異性愛的な欲望と同様、規範から自由ではない。私が言いたいのは、欲望は社会や文化から独立してあるのではない、ということである。

しかしマッキノンとドウォーキンが男性異性愛者向けのポルノにおける女性の表象の問題を社会に訴えた時、殆どの人が全く問題がないと言って彼女らを笑った。なぜ彼女たちには「女性を守る」という目的の下に集い、資源を提供してくれる多くの支援者たちがいなかったのか。現在「児童を守る」という目的のために多くの支援者が集まっているのに?唯一の違いは、この二人のフェミニストが「女性」のことを心配していたということだ。若い/年老いた/黒人の/白人の/アジア人の/ユダヤ人の/障がいを持った/障がいを持っていない……女性たち。なぜ大衆は、「女性」がどんな風に公に表象されたところで構わないと思ったのだろうか。そして結局のところ、「表象」自体が問題含みだというのは、本当なのだろうか。

マッキノンとドウォーキンは、後に反フェミニスト的自由主義者によってのみならず、フェミニスト自身によっても「“ポルノ”という言葉で何を意味しているのか?」と批判されることになる。しかしフェミニストの目的は、既存の権力関係の内部から撹乱を起こすという可能性に光を当てることにあった。ポルノとして作られたか否かに拘らず、表象はオーディエンスがどう解釈するかということに一切関与できない。もし誰かが性的に興奮したとしたら、裸の天使たちの絵画は児童ポルノになるのだろうか。ジュディス・バトラーは著書『触発する言葉–言語・権力・行為体』で、欲望が社会・文化に依存しているにも拘らず、或は正にそれ故に、欲望を表象する際の諸々の規範的な決まり事の内部にこそ、撹乱の契機があると論じている。マッキノンとドウォーキンが主要なゴールと定めた「規制(検閲と訴訟)」。それを希求することは即ち国家権力へと縋り付くことであり、それによって国家権力は当該の規制対象を表象する正統性を独占し、セクシュアリティの受容可能/不可能の境界線を書き直せる程にすらなる(歴史的に「逸脱」したセクシュアリティを抑圧して来たように)。結局私たちは、一見異性愛規範的で性差別的なポルノが、予期せぬ(時にクィアな)やり方で読み取られる可能性、即ち「何か」を十全に描くことなどできない「表象」の、そのプロセスの中で切り捨てられた余剰的な複雑性が再度掬い上げられる可能性を、予め閉じてしまっているのだ。バトラー以後は、多くのフェミニストが反ポルノの議論を、依然力はあるものの同時に大いに疑問の余地がある、と見るようになっている。

ここで児童ポルノに戻り、以下のように問うべきだろう。現在世界規模で共有されているの精神は、当時のフェミニズムと同じく問題含みなのではないか。私たちはなぜ、ポルノに関するフェミニストの長い議論の歴史を顧みもせず、児童ポルノの法的解決を急いでいるのか。結果的に議論を活発化させ、フェミニストの言説を大いに鍛えてくれる程にまで、女性を貶める表象の問題を認めたがらなかった大衆は、なぜ今、一切を疑うこと無しに児童の性的な表象の問題を早急に認めているのだろうか。