「わたしには言葉しかない」場合——告発と検閲

言葉を持つこと、すなわちある程度の語彙と論理性に関する能力の訓練が可能な機会に恵まれた人生を一定期間過ごしたことがあるということは、やっぱり権力性を帯びないわけがない。そんなことは当たり前で、だからもちろん言葉を持つことというのは、特にその言葉が歴史的・社会的に権力を持っている/持って来たような文化のものであるとき、暴力的になり得るし、その取り扱いには注意しなければならない。しかもそれは西洋中心的な学問の言語であったり、あるいは啓蒙主義的で道徳的な語彙や定義であったり、色んな形態を取る。

言語は文化と密接に結びついているから、例えばある種類の「人種」を名指す言葉があったとき、それはその語彙を用いる文化における「人種」という概念そのものの見方を反映しているし(注1)、同時にその語彙によってその概念自体が再生産されたり強化されているだろう。ある時代になって初めてある特権的な領域(例:医学、法学)から新たな語彙が発明され、それが流通することで、世界の風景が変化することも多々ある。例えばセクシュアリティに関しては、それ自体が近代西洋医学によって発明された概念であり、それ以降西洋文化に影響を受けて来た社会においてはセクシュアリティが人を分類する一つの基準として採用されている。またあるいは「人工物」と「自然」を分ける考え方も、山々や木々、湖畔や昆虫などの風景を見る目をある程度枠付けしているだろう。

だから言葉は無力ではない。物理的な暴力の前には言語など役に立つわけがないという考えは、しかし何を「暴力」とするのかという言語的な問題を抜きに短絡的に同意してはならない種類のものだ。なぜなら、言語使用者を屈服させて物理的な暴力にものを言わせる行為というもの自体が、時に「文明的な社会(言語を使用し、理性によって統制されているような人々の集団)」に対する「野蛮な無法者(まともな言語を話さず、狂気に満ちた人々の集団)」という脅威、という枠組みで捉えられるからだ。そのように境界付けされた「無法者」たちは、まともな言語を話さないとされているのだから、どんなに声を届けようと挑戦しても、単なる狂者の「うめき声」としか解釈されない。だから「文明的な社会」に住む人々にとって本当の脅威は「野蛮な無法者」による物理的な暴力ではない。本当に彼ら彼女らが恐れているのは、「野蛮な無法者」の「うめき声」が実際に意味をなしてしまう瞬間である。

「野蛮な無法者」にとって、たとえどれだけ「野蛮な無法者」というのが不当な名付けであったとしても、それに対して不当性を訴えて名付けを拒否することは不可能である。それは、もちろん「まともな言語の話せない者には語彙の問題について意見など出来るわけがない」という文化的な信条/命令があるからであり、それと同時に、「野蛮な無法者」という呼びかけに応えないと決めた瞬間その者は、一切の語彙からはじき出されてしまうからだ。「野蛮な無法者」という名は、不当な名でありながら、同時にそこで名付けられている者にとっての唯一の名であり、それを使わずして世界に自分の存在を表明することすら出来ないような種類の名なのである。だから「野蛮な無法者」は、言語を捨て去ることが出来ない。どれだけその言語が彼あるいは彼女に不当な名付けを強いていようと、どれだけ不当な位置性を強いていようと、例えばサタンの肌の色がネガティブに「黒」と象徴づけられているからと言って「黒」という言葉を捨ててしまったら、たちまちサタンの肌の色を表す言葉がなくなってしまうのと同じように、「野蛮な無法者」「として」でもいいから存在しなければならない、という切実な(しかし仕組まれたデキレースのような)踏ん張りが、彼女あるいは彼を土俵際に留まらせているのだ。

しかしなぜそもそも彼あるいは彼女が、気づいた時には既に土俵際に追いつめられていたのかを考えなければいけない。「野蛮な無法者」は「野蛮な無法者」に生まれるわけじゃないが、誰が「野蛮な無法者」とされるか、あるいは、どの者の声が「うめき声」とされるかということに関しては、その者が生まれる前に文化的な規範によってある程度決まっている。この文化的な規範というのは多くの場合専門的な語彙に支えられており、例えば「東洋」、「同性愛者」、「黒人」など、「科学的」とされる語彙がそういった役割を担って来た。他にも「テロに屈しない」だとか「自己責任」、「フェミナチ」なんていう語彙も、その言葉が使用される文脈にある文化的な規範を反映するし、同時にそれらの規範を再生産する。

じゃあ「野蛮な無法者」側に配置されてしまっている者にとって、その配置を完全に拒否することがすなわち自身の存在の無化を意味するのだとしたら、どんな抵抗が可能なのだろうか。それは、新しい語彙や定義を文化的状況に投入して行くことでしかない。例えば “Black Is Beautiful” とか “womyn” とか “queer” とか “Lame is Good” と言うことで既に存在する語彙に新たな意味を付与しようとする運動に見られることであり、また一方で現状では関連して考えられていない語彙を結合させたりすることにも見られる(例:「ホモは普通」)。どのような語彙をどのように改変するかというのは人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるので、例えばある人にとって有効だと思うやり方がまたある人にとっては問題を更に深めると感じられる場合もある(例:「ホモは変態です」と言って「変態」という言葉の改変を目指す方向と「ホモは普通です」と言って「ホモ」という言葉の改変を目指す方向は、共有出来る思想があるにせよ、どこかで矛盾せざるを得なかったり)。

しかしこういった言語自体に介入することで行う抵抗は、しかし、大体の場合すぐには成功したりしない。そもそも「まともな言語を話さない」者たちのそういった試みは、「語彙の誤用」だとか「文法エラー」だとか言われて無視されたり、検閲されたりするのだ。だからそこには練り上げられた戦略が必要になる(本来そんな戦略を練らなければいけない謂れは一切ないのだけれど)。どんな戦略を採用するかというのは、やはり人それぞれ自分の優先順位や問題意識によって異なってくるのだけれど、例えば「当事者の声」として、「文明的な社会」の「市民」たちに自分たちの声をとにかく伝える、道徳的に「耳を傾けなければならない声」として自らの声を位置づけて(その時には「社会正義」とかいう概念を押し出すこともあるかもしれない)行こうとする方向もその一つだ。また、「うめき声」をそのままではなく、「文明的な社会」の「市民」たちにとって理解可能な言語に翻訳することで異なる言語のあり方(それはすなわち異なる文化のあり方でもある)を提示するというのも一つの方向。その際には恐らく既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を、一度学ばなければならない。一度学んだものを切り崩して、現状では「論理的」とされている言説に対する新しい「論理」を打ち出す必要があるのだ。どのような論理を打ち出すかと言えば、やはり人それぞれ優先順位や問題意識によって異なる。

ボク個人としてもそうだし、恐らく理論的な作業をしているクィア関連・フェミ関連の人たちもそうだと思うのだけれど、基本的には「うめき声」の翻訳の試みが重要な位置を占める。現在ある権力構造を改変するために、それの基盤であり同時に結果であるような言語体系に一度身を投じることでそこにある語彙を再利用して、その再利用のプロセスで「ずれ」を生じさせ、文化的規範に抵抗する。例えば「女は子を産む→だから女は子を育てる」という論理は「→」の部分にとんでもない飛躍があるわけで、そういう現存する文化的規範を切り崩すために、「女は子を産む→だから男が子を育てる」という文章を作ってみたらどうか。この第二の文の「→」には、第一の文の「→」と同レベルの飛躍があるが、だからこそそもそも第一の文の「論理性」というのも、唯一の正しい論理ではなく、可能な「飛躍」のうちの1つでしかなかったことが明らかになる。しかしこういった試みをするためには「女」「男」「子」「産む」「育てる」などと言った諸語彙(とそれらに付与された意味)を一度受け入れなければならない。

このように見ていくと、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を(唇を噛み締めながら)一度学び、工夫して何らかの抵抗をしようとしている者たちの発言と、既存の言語体系及び文化的規範に沿って構築されている語彙を(にこやかに)利用して自らの権力や特権を保持しようとしている者たちの発言の間には、あまりにも重要だが、あまりにも小さくて見えづらい差がある。「言葉を持つ」ことは権力的である、という発言が、しかしどういう意味で発せられる言葉なのかと考えなければいけない。それは、これまで「野蛮な無法者」と思われて来た者たちの抵抗の言葉を検閲するために発せられているのか(意図ではなくとも、効果的に検閲してしまうことは頻繁にある)、あるいはこれまで「文明的な社会」の「市民」と思われた来た者たちの特権保持のために発せされる言葉を「告発」するために使われているのか。

黙っていれば「野蛮な無法者」は死ぬ。「死ぬ」というのは必ずしも物理的な死を意味しないけれど、時として本当に物理的な死へと促されることもある。虐殺だったり、ヘイトクライム、自殺、摂食障害、不十分な医療サービスなど、リアルな死が「野蛮な無法者」を待っている。しかしだからと言って、語る言葉を学べば死から免れるかと言えば、そうでもない。言葉を使っても死ぬことはよくある。例えば去年あたりにカリフォルニアの学校で女性的なジェンダー表現をし始めた男子学生がコンピュータルームで他の学生に銃殺されたように。ある表現が更なる暴力の引き金になることはある。しかし発話することに少しでも抵抗の機会が見いだせるのであれば、つまり生き抜く可能性が発話することでしか切り開かれないのであれば、私たちは発話するしかない。黙れば死。喋っても死ぬかもしれない。でも死なないかもしれないのは、発話した時だけなのだ。

「わたしには言葉しかない」場合、その者の言葉を検閲することはマジョリティによる更なる抑圧である。「うめき声」も聞きたくなければ、「うめき声」が聞こえてしまった時にそれが解釈出来てしまうという恐怖をも払拭したい、という願望は、裏切られなければならない。その願望に突き動かされて「お前たちの言っていることは屁理屈だ」と言う人は多い。しかし自分の理屈だけが「理屈」で、マイノリティが理屈を言い出したら「屁」扱いをするのは、単なる願望の発露でしかなく、その際にいかに「理屈」そのものが、つまり言語体系や論理性そのものが権力性を帯びたものであると「告発」した気になっても、それは単なる「検閲」でしかない。

そして「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と、中立的な装いで物事を「冷静に」判断しようとする者は、検閲と告発の重要な差異を見落としている。そして何よりもそこで見落とされているのは、そのように「中立」かつ「冷静」な判断が出来ると思っている本人の権力性である。しかも、「あなた方の言葉は、どちらも権力性を帯びた危険なものです」と言い出す者は、たいていの場合、その場で一番の権力を持っている。あたかも「告発」と「検閲」の両方を同時に行っているように見えなくもないが、しかし殆どの場合こういう人は「告発」だけを行うことはしない(注2)。「野蛮な無法者」が唇を噛み締めながら言語を学び、マジョリティに理解可能な言語を使って苦情を申し立てた時にだけしゃしゃり出て来て、権力性について言及したりするのだ。そういう場合、結局そこで行われているのは検閲でしかない。結局、既存の権力構造が温存されても何も困ったりしない者だからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。黙っていれば負けが確実な者が何とか生き抜くために死にものぐるいで獲得した言語(や論理性)を、「屁」としか思わないからこそ、そういう「中立的」な物言いが可能なのだ。

確かに言葉は権力性を帯びているし、暴力的にもなりうる。しかしだからこそ、現在の社会状況がどのような言語に正当性を見いだしていて、どのような言語に「うめき声」というレッテルを貼っているか、その暴力をまず見ないことには、言葉の権力性について何も考えていないのと同じである。

注1:例えば id:macska さんの[http://macska.org/article/102:title]にあるような「アジア系・太平洋諸島系」という人種カテゴリ。また、「アジア系」とか「黒人」といった言葉がアメリカで使われるときとヨーロッパで使われる時に、それらの言葉で指し示されている人々が必ずしも同じではないことも重要。

注2:そういうことを普段からしている人なんかは、たまに「喧嘩両成敗」的なことを言い出しても、ある程度信頼してもらえるしね。

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