児童ポルノとフェミニズム

この記事は国際基督教大学ジェンダー研究センターの CGS Newsletter 第11号に掲載されました。 PDF

第3回子どもと青少年の性的搾取に反対する世界会議(2008年11月24日)は、アニメ・マンガ・3DCG等を含めた児童ポルノの単純所持を全ての参加国が違法化するという方針を採択した。多くの国は既に、成人と児童の権力差から考えて「同意の上」ではあり得ないため、性的搾取や暴力から児童を守るために児童ポルノの生産及び販売を禁止している。しかし今回の方針は監視を強め、実写でない児童ポルノの単純所持をも違法化するものだ。背景には、実際に児童の関与がなくても児童ポルノは人々の児童を見る目を変え、その広範な普及は児童のイメージを極度に性的なものへと至らしめるだろう、という考えがある。即ち、合意の成り立たない行為で児童が実際に受ける身体的・精神的苦痛だけでなく、間接的であれ自体が実際の児童に苦痛をもたらす、ということだ。

キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンは、男性異性愛者向けに作られた…つまり殆どのポルノは、単に社会の男女権力差を反映するだけでなく、貶めるように女性を描いたり、更に言えば「欲望の灌漑水路」とでも呼びたいものを作り出すことで、社会の男女権力差を維持・強化する働きも持っていると論じた。「クィア」なフェミニストとして私は、逸脱的だろうが抑圧されていようが全ての欲望が尊重されるべきだと考える一方、クィアな「フェミニスト」としては、同性愛・小児性愛やその他の欲望へ、そして最も頻繁には異性愛へと欲望を灌漑する、その「欲望の灌漑水路」により関心がある。その灌漑システムの内部では、ジェンダー・人種・民族・年齢・階級・外見・障がいの有無などの既存の権力構造に則った差異の表象が複雑に絡み合っている。しかし、社会的不正義に(必ずや)依存してしまう類の欲望のあり方が「間違い」だと言いたいのでも、そんな欲望を持つ人々を攻撃したいのでもない。実際、同性愛や小児性愛など周縁に追いやられているような欲望でさえ、異性愛的な欲望と同様、規範から自由ではない。私が言いたいのは、欲望は社会や文化から独立してあるのではない、ということである。

しかしマッキノンとドウォーキンが男性異性愛者向けのポルノにおける女性の表象の問題を社会に訴えた時、殆どの人が全く問題がないと言って彼女らを笑った。なぜ彼女たちには「女性を守る」という目的の下に集い、資源を提供してくれる多くの支援者たちがいなかったのか。現在「児童を守る」という目的のために多くの支援者が集まっているのに?唯一の違いは、この二人のフェミニストが「女性」のことを心配していたということだ。若い/年老いた/黒人の/白人の/アジア人の/ユダヤ人の/障がいを持った/障がいを持っていない……女性たち。なぜ大衆は、「女性」がどんな風に公に表象されたところで構わないと思ったのだろうか。そして結局のところ、「表象」自体が問題含みだというのは、本当なのだろうか。

マッキノンとドウォーキンは、後に反フェミニスト的自由主義者によってのみならず、フェミニスト自身によっても「“ポルノ”という言葉で何を意味しているのか?」と批判されることになる。しかしフェミニストの目的は、既存の権力関係の内部から撹乱を起こすという可能性に光を当てることにあった。ポルノとして作られたか否かに拘らず、表象はオーディエンスがどう解釈するかということに一切関与できない。もし誰かが性的に興奮したとしたら、裸の天使たちの絵画は児童ポルノになるのだろうか。ジュディス・バトラーは著書『触発する言葉–言語・権力・行為体』で、欲望が社会・文化に依存しているにも拘らず、或は正にそれ故に、欲望を表象する際の諸々の規範的な決まり事の内部にこそ、撹乱の契機があると論じている。マッキノンとドウォーキンが主要なゴールと定めた「規制(検閲と訴訟)」。それを希求することは即ち国家権力へと縋り付くことであり、それによって国家権力は当該の規制対象を表象する正統性を独占し、セクシュアリティの受容可能/不可能の境界線を書き直せる程にすらなる(歴史的に「逸脱」したセクシュアリティを抑圧して来たように)。結局私たちは、一見異性愛規範的で性差別的なポルノが、予期せぬ(時にクィアな)やり方で読み取られる可能性、即ち「何か」を十全に描くことなどできない「表象」の、そのプロセスの中で切り捨てられた余剰的な複雑性が再度掬い上げられる可能性を、予め閉じてしまっているのだ。バトラー以後は、多くのフェミニストが反ポルノの議論を、依然力はあるものの同時に大いに疑問の余地がある、と見るようになっている。

ここで児童ポルノに戻り、以下のように問うべきだろう。現在世界規模で共有されているの精神は、当時のフェミニズムと同じく問題含みなのではないか。私たちはなぜ、ポルノに関するフェミニストの長い議論の歴史を顧みもせず、児童ポルノの法的解決を急いでいるのか。結果的に議論を活発化させ、フェミニストの言説を大いに鍛えてくれる程にまで、女性を貶める表象の問題を認めたがらなかった大衆は、なぜ今、一切を疑うこと無しに児童の性的な表象の問題を早急に認めているのだろうか。

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