内部批判の意義

Twitter 上で松浦大悟さんと数日間やりとりさせて頂いている中で、尾辻かな子事務所閉鎖イベントにおける伏見憲明さんのスピーチの原稿を紹介していただいた。他のユーザーにも言及され、参照されている文章なので、ある一定方向の主張をするときには「まずこれを読んどけ」的な、 the Book 的な位置づけなのかもしれない。更に、彼の文章を紹介するブログ記事も見つけることができた。ボク自身は伏見さんの言いたいことも分かるし、それが(広い意味での)政治的な文脈で何らかの重要性を持つ/持っていたことも分かる。分かるのだけれども、同時に、表舞台に立って人々の支持を得ようとする際の問題を、ある部分においては明確にしつつ、しかしまたある部分においては隠蔽してしまう効果を持っているような気がして、特にその後者の部分に光を当てたいと思ってこの文章を書いているところ。よってこの文章は尾辻かな子さんや彼女の活動、あるいは伏見憲明さんの文章や彼の目指す方向性を批判しようというつもりで書いているのではなく、尾辻かな子さんに限らず今後数多く出て来るであろうセクシュアル・マイノリティ議員候補を応援する気持ちから書かれたものであると理解して頂ければ幸いです。

松浦大悟議員とのやりとりは『「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」 何が問題か?』で読めます。この文章をお勧め下さった松浦議員のツイートはこちら: http://twitter.com/GOGOdai5/status/13528077404
伏見憲明さんのスピーチ原稿は『スピーチ「先人たちの思いに寄せて」』で読めます。
伏見さんの原稿を紹介しているブログ記事は『セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間』で読めます。

スピーチの後半、伏見さんは尾辻かな子さんの落選の原因が何だったのかを分析しています。

まず「尾辻さんの挑戦を否定的に捉える必要はまったくない」が、同時に「敗戦から学ぶことも必要」だと主張し、「現実から多くを受け止めなければなりません」と言って、分析に入ります。尾辻さんの選挙活動に詳しい沢辺均さんによれば、尾辻さんはLGBTの票を取り込めていたとは言えないが、同時に「尾辻さんの親戚筋の多い鹿児島」では高い得票率が見られたとのことで、これをもって伏見さんは「同性愛者であることを明らかにして立候補することが、とくにプラスにもなっていないがマイナスにもなっていない、という事実を表してい」ると主張します。そして、マイナスになる要因(攻撃的な勢力がいるとか、メディアがこきおろすとか)が無かった上に、候補者や選挙対策における力不足や魅力不足も見られないのであれば、それは「むしろ日本のセクシュアルマイノリティが政治的な主体として層を成していない、成す必要をあまり感じていないのだ、というふうにとらえたほうがいい」のではないか、と伏見さんは分析します。

そして、セクシュアル・マイノリティが政治的な主体として層を成さない理由を、「その多くが日々の暮らしのなかでそれなりに苦しさを抱えながらも、それなりに満足もしているという中途半端な状況を生きている」からであり、一方で「現在でも差別はそこかしこにあ」るが、同時に「すでにこの社会はある程度セクシュアルマイノリティのことを受け入れようとしている」からではないか、との考えを提示します。

その上で、セクシュアル・マイノリティの内部の利害の共通項を見つけるのが困難である現代、「さまざまな立場の当事者をいかにつなぎ、共有する目標を設定できるのか。そしてどんな社会構想をこちらから積極的に提出できるのか」が重要になると主張し、「いまや必要とされているのは、『セクシュアルマイノリティの政治家』ではなく、『優れた政治家で、なおかつ、セクシュアルマイノリティの問題を解決できる人物』」であり、「私たちがいま、ハーヴィー・ミルクから学ぶべきことは、セクシュアルマイノリティのゲットーを作ったり、社会を敵と仮定して闘っていく過激さでは」ない、と言って、スピーチを締めくくっています。

ボクは、伏見さんの言うようなセクシュアル・マイノリティ当事者内の多様性については正にその通りだと思うし、共通項を見つけてつながることが困難である中、つながる努力を怠るのではなく、かと言ってセクシュアル・マイノリティのゲットー化を目指すのでもない方向性というものに共感しています。ただ、尾辻さんの落選の分析に関しては、意見を異にします。

ボクは、そもそも LGBT が尾辻かな子さんに投票するだろうという予想自体、間違っていたと思います。それは伏見さんも同様に思っていると思います。ただその理由は、伏見さんが思っているような「(セクシュアル・マイノリティの多くは)日々の暮らしのなかでそれなりに苦しさを抱えながらも、それなりに満足もしているという中途半端な状況を生きている」から、あるいは「すでにこの社会はある程度セクシュアルマイノリティのことを受け入れようとしている」からではなく(そういう側面も、状況によってはあるかもしれませんが)、多くのセクシュアル・マイノリティが(積極的に彼女に投票「しなかった」のではなく)自分の生活にとって重要な争点について魅力的な政策を掲げている他の候補者に積極的に投票「した」から、あるいは(尾辻さんも含め)自分の生活にとって重要な争点について魅力的な政策を掲げているような候補者が見つからなかったから、ではないかと思うのです。

もちろん、尾辻落選にレズボフォビア(レズビアン嫌悪・恐怖)やミソジニー(女性嫌悪)が無縁だとは言いません。しかしLGBTは国籍、障害、階級、職種、地域、階層、教育レベルなどを横断して存在してるのであり、3-5%いるLGBTがみな尾辻ひとりに投票するわけがありません。階級や障害の有無、国籍などにより個々人がそれぞれ「もっと急務」な問題を抱えていて、例えば今年ビザが切れて国外退去を迫られるかもしれない人を友人やパートナーに持つ有権者は外国人の滞在に関して寛容な政策を掲げている候補者に投票したかもしれない。しかしそれはその人にとってLGBTであることの問題が小さいわけでも、社会のLGBTを取り巻く状況にそこそこ満足しているからでもなく、やむを得ず、生きるためにした苦渋の選択でありましょう。

一方で ima-inat さんのブログでは伏見さんの文章を受けて、以下のように言っています。

一方で尾辻さんの落選は、マイノリティに優しい権力-社会の存在を示唆するものであるかもしれない。しかし、他方、その落選は、現実には価値多元的な社会を「みんな」が望んでいるわけではないことをも、指し示しているのである。仮に「みんな」が、理想的な社会構想——価値多元的な社会——を現実に造り上げようと欲していたのであれば、レズビアンというマイノリティが参議院に現れるということを実現させようと欲していたのなら、彼女に投票したであろう。

ボクはこの分析にも、賛成できません。尾辻落選からは、LGBTが政治への接続を必要としてないとも、みな本当は価値多元的な社会を望んでないとも言えないのではないかと思うのです。LGBTの問題の政治における争点化が重要であると思っていて、かつ価値多元的な社会を望んでいたとしても、尾辻さんに投票しないという選択はあり得ます。LGBTであること以外になんら生活上の苦痛が無い人であれば迷わず尾辻さんに投票したかもしれないけれども、尾辻さんがあれだけLGBTの問題を前面に出して選挙活動する中、障害者の雇用について積極的な政策を前面に出した候補者や、外国人参政権に積極的な政策を前面に出した候補者に投票したLGBT当事者は確実にいたでしょう。それは裏切りでもなんでもなく、自分自身の、そして自分の周囲の人間の生活のために行った決断であって、LGBTの差別が解消されてきた証拠とは言えないと思います。

結論を言う前にことわっておくと、伏見さんの主張と ima-inat さんの主張は決して同じではなく、個人的には伏見さんの考えの方が説得力があると思います。また、お二人が思う尾辻落選の原因も、全くもってあり得ない話ではないと思います。ただ、 ima-inat さんのご主張は基本的に尾辻落選の原因から尾辻さんの責任を取り除くような、つまり原因は尾辻さんにはなく、あたかも社会全体の変化とLGBTの有権者のみにあるかのような印象を与えると思います。伏見さんのご主張は(恐らく) ima-inat さんの主張と呼応しつつも、しかし「それに対応出来る政治家」となることを尾辻さんや将来の候補者たちに求める点で、説得力を持ってはいると思います。しかしそれでも今回伏見さんの文章が紹介されたのは『「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」 何が問題か?』の文脈であり、つまり「頻繁に行われるようなアクティビズムに対しての批判はアクティビズムの発展を阻むものであり、控えるべきである」という主張を支えるための後ろ盾として伏見さんの文章が使われていることに、ボクは危険を感じるのです。

尾辻さん含め何らかの形で表舞台に立って発言や行動をする人や表舞台に立つアクティビズムがLGBTやクィアの人々から大きな支持を得られないときに、その責任をその表舞台に立つ人・団体・活動ではなく、批判者に押し付けることは、次のような問題があると思います。第一に、LGBTを含む多くの投票者がそれぞれ様々な立場(国籍、障害の有無、階級、性別、人種・民族、教育レベル、地域、職種など)を跨ぐようにして生活していることから目を逸らしてしまうこと。そして第二に、実際に尾辻さんがどうであったか、あるいはどういった方向性を望んでいるのかにかかわらず、尾辻さんのような立場の人やアクティビズムに活発に関わる人々がマルチイシューに物事を運ばないことの言い訳を作ってしまうことです。作られた言い訳を本人が喜んで受けれたり採用するかにかかわらず、あるいは本人がマルチイシューな物事の運び方を目指しているかにかかわらず、そういった言い訳を常に用意して(あげて)いることには、何らかの政治的意図や個人的理由があるのではないかと勘ぐってしまいます。

伏見さんのご主張は、「頻繁に行われるようなアクティビズムに対しての批判はアクティビズムの発展を阻むものであり、控えるべきである」というものではありません(と、勝手に思っています)。伏見さんの文章はセクシュアル・マイノリティの多様性にも触れており、その多様な中でいかにつながりを作っていくのか、そしてそれを受けて活動家や政治家にどのような行動が求められているのかについて語る文章です。様々な細かい点で伏見さんとは意見を異にしますが、そこにある基本的なスタンスには共感しています。ただ、尾辻落選の原因分析において、様々な立場にあるLGBTの支持を得るために尾辻さんが出来たことへの言及を避けて、社会状況やLGBTの有権者側だけの責任に言及なさることは、尾辻かな子事務所閉鎖イベントのスピーチであることを考慮しても、上に書いたような「言い訳」を作る材料を提供してしまったとは言えると思います。

ボクは尾辻さんの更なる活躍を願っていますし、多くの他の活動家や、ロビー活動をしている人たちが行っているアクティビズムを尊敬しています。そして、今後もそういった活動が発展していくことを願いながら、自分も機会あるごとに参加していきたいと思っています。そして、そういった発展のためにも、尾辻さんの場合で言えば(当事者の投票を望むのであれば)なぜ当事者が投票しなかったのかを、投票者側の分析だけではなく尾辻さん自身の政策の分析も通して考えなければいけないと思いますし、他のアクティビズム、例えば今回の「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」であれば、なぜ当事者の支持が大規模に集まらないのかを、批判する当事者たちの分析だけでなく「週間」の活動自体の分析も通して、考えなければいけないと思います。でなければ、尾辻さんや「週間」の側に常に「シングルイシュー(や、それに近い形)での活動をすることの言い訳」を提供し続けてしまうでしょう。そもそも彼女ら彼らがそんな言い訳を望んでいるかも分からないですし、活動してる人たちには恐らく、批判があったり支持が集まらなければ「自分たちの何が問題だったのだろう」とまず考えるタイプの人が多いと思うのですけれども。

言いたいことは以上ですが、念のため繰り返し書いておきます。これは、伏見さんの文章自体への批判を目的とする文章ではなく、その使われ方、つまり「LGBT全体のために、批判は控えるべき」という主張においてこの文章が証拠のように出されることを批判しようとした文章です。ボクが一生懸命読んで理解した限り、伏見さんの文章からはそのような結論には至りません(むしろ本当は尾辻批判、というか、少なくとも尾辻鼓舞をしたかったんじゃ?と思えてきた、読めば読むほど)。

「批判する当事者」側の主張に問題がある場合もあるでしょう。逆に、批判される側に批判されて然るべき原因がある場合もあるでしょう。しかしそれは、各々の文脈において事後的に確認されることであり、批判-前に想定出来るものではありません。もしきちんとした分析がなされた結果、尾辻落選の原因は社会状況であって尾辻さん本人や彼女の政策ではない(つまりLGBT全員にとって尾辻さんは最善の選択であって、それでも投票しない人がいた)、という結果が出たら、ボクは上に書いた主張を取り下げます。しかし尾辻さんの場合にそうだったからと言って全ての場合において「支持しない/批判する当事者」側が責められるのはおかしいですし、具体的に文脈に沿った理由を挙げずに「批判は控えるべきだ」と言われるのもおかしいと思います。また、尾辻落選の原因が社会状況であったとしても、尾辻さんがマルチイシューな活動をしなくてもいいということにはなりません(してない、と言ってるわけではないです)。

ボクは、多くの人にマルチイシューな活動をして欲しい。自分が行っている活動も同様にマルチイシューにやって行きたい。そうすることでしか救われない人がいる、そして自分自身もそうでなければ救われない。また、多くの人はそういう活動の必要性を感じているはずです。マルチイシューな活動は100回やれば99回くらい失敗するんじゃないかってくらい難しいことですが、99回批判を受ければ次の100回のうち5回くらいは成功するかもしれない。そこでまた95回批判を受ければ、次の100回では20回くらい成功するかもしれない。尾辻さんにしろ「週間」にしろ、「彼ら彼女らへの批判は控えるべきだ」という人たちは、彼女ら彼らの活動の更なる発展を望んでいないのでしょうか。より多くの当事者が関われるような、支援できるような活動を作っていくこと、それはつまり伏見さんが言う「さまざまな立場の当事者をいかにつな」ぐのかをきちんと考えることと同じだと勝手に思っているのですが、そういうことを通して初めてLGBTやクィアのあいだのつながりが出来ると思うのです。

そしてそれには、「批判」が必要不可欠です。人によっては、「そんな風に批判ばかりをされては、もう少しで実を結びそうなこの活動が水の泡になってしまう。待っている時間はない」と言うかもしれません。けれど、その「もう少しで実を結びそうなこの活動」のために、既に待っている人がいることを忘れてはいけないと思うのです。その上更に批判することまで「待て」と言うのであれば、ボクはそれに全力で抵抗しますし、批判をし続けます。

ブツっと切りますが、キリがないのでここで。

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内部批判の意義」への2件のフィードバック

  1. ブログを紹介いただきありがとうございます。(twitterでも勉強させてもらっています!)
    とりいそぎ以下、雑駁なことですが、感じたことを書きます。

    マルチイシューについておっしゃっていることは、まさにそのとおりでシングルイシューだけに特化することは、現代の複雑な政治状況には対応できていないことになるでしょう。セクマイだけに特化することで、見失われる部分も多くあるとも思います。

    が、根本的なところで言えば、民主主義、そのなかでも特に代表民主主義に関しては、候補者=マルチイシューという対応が無化されてしまうようなところがあります。仮に候補者がマルチイシューに対して積極的に活動したとして、有権者がその候補者に投票するときには、候補者のどのイシューに賛成して、どこに反対だったのかは結果としては現れません(例えば、先の小泉選挙の時を考えてください。小泉は郵政というシングルイシューに特化しており、マルチだったのは岡田民主党でした。しかし実際に大勝利を収めたのはシングルイシューを明確に打ち出した小泉だったのです)。もちろんこのことはマニフェスト選挙そのものにも言いうることだとは思いますが。

  2. はじめまして。
    私は27歳のバイセクシャルです。
    私はセクシャルマイノリティの問題には関心がありますが、
    難しい事は分かりません。
    (すみません。学が無いもので。)
    でも一生懸命理解しようと必死になって読んで見ました。
    何度もこの記事を理解しようとこれからも何度かこのブログに伺おうと思います。
    それでは失礼致します。

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