ドイツの団体によるジュディス・バトラーのインタビュー(和訳)

ベルリンのパレードについて、著作と理論について、レズビアンという名前について、アイデンティティについて、被傷性について、ユダヤ系出自について、非暴力について、主体論とヘーゲルについて、という、お腹いっぱい!なインタビューです。インタビューしている側の発言に時々ボクが理解出来ない表現があるので、コメントか Twitter で助言頂けたら助かります。

ジュディス・バトラー インタビュー ←クリックで原文に飛べます

1956年オハイオ州クレヴァランドに生まれたジュディス・バトラー。彼女を知らない人などいるだろうか。『ジェンダー・トラブル』の出版以来彼女は、彼女の理論、とりわけジェンダーのパフォーマティヴィティの理論によって国際的に知れ渡った。フェミニズム、クィア理論及び政治哲学という、その内部で彼女自身が熱心な活動家かつブッシュ政権下のアメリカの戦争政治の批判者であるような分野に、彼女の研究は貢献している。特にドイツにおいては、ジェンダーに関わるバトラーの理論を受け入れることは非常に物議を醸し出し、フェミニズムにおいて活発な議論を引き起こした。彼女の最近の研究は、人種主義や侵略に反対し平等を求めること、ユダヤ哲学、そして国家暴力の批判を主にしている。ベルリンパレード (Berlin CSD) のあとすぐにベルリンを発ってしまったので我々は直接バトラーと話をすることが出来なかったが、バトラーが私たちのEメールにおける質問——人種主義とベルリンパレード、最近の彼女の政治的発言、近代フェミニズムが直面する問題、そしてユダヤ系の出自がどのような重要性を持っているのかについて——に回答する時間をかけてくれたことを喜んでいる。

パレードとジェンダー

AVIVA-Berlin: ベルリンパレードでは受賞を拒否されましたが、もし6月26日に行われる the alternative CSD (訳者注:人種主義など複合差別の問題に取り組んでいる団体が協力している、ベルリンパレードとは異なるパレード主催団体) から同様の賞がオファーされていたら、受賞を受け入れたでしょうか?
Judith Butler: はい、恐らくそうしていたと思います! とにかく、私自身ベルリンにおける政治的状況を理解するのが遅かったことが悔やまれます。というのも、到着したときは受賞を受け入れるつもりでいたので、私に受賞を受け入れないようにと言うヨーロッパ中の人々や団体の数に相当驚いたのです。

AVIVA-Berlin: 2010年のベルリンパレードの主催者たちのことを二重差別が見えていない、人種主義的発言から距離を置いていない、そしてイベントそのものが表面的なものになっているとして批判しましたね。これらの問題が、あなたのおかげで目に見えるようになったと思います。具体的にどういう問題について言っていたのか、教えていただけますか。
Judith Butler: 「表面的」という言葉は使っていません。パレード開催を手伝った誰かが「私が言った」と言ったのかと思います。問題は、イベントが表面的であったことではなく、北アフリカ・トルコ・アラブ系国家の人々を自分たちよりも近代的ではない、あるいはより原始的である人々と言うような非常に強い反移民言説に参加している団体や個人に、このパレードが関係を持っているということです。同性愛嫌悪は至る所で見つかると思いますし、それは宗教的・人種的マイノリティの中にも見つかるでしょう。ですが、もし私たちが他のマイノリティの偏見を助長したり品位を下げることによって同性愛嫌悪に対抗してしまったら、私たちは非常に深刻な間違いを犯すことになります。私としては、同性愛嫌悪に対抗することは、人種主義に対抗することと関係していますし、支配下に置かれたマイノリティは協同して活動する道を探す必要があると思います。ですから、このパレードの協同団体のリストに、人種主義と同性愛嫌悪に対抗している様々な団体の名前が挙がっていないことが、気になったのです。

AVIVA-Berlin: 自己弁護のために主催者は、あなたのスケジュールがタイトだったために、パレード中およびパレード前に行われた差別に対抗する活動の全てを知ることが出来なかったのだと言っています。であれば、主催者たちがどこで公的に倫理的勇気を示すことが出来ていたと考えますか。
Judith Butler: このパレードの中にも様々な差別への対抗を示そうとした団体や人々がいたことは、疑っていません。ですが Jan Feddersen や Rudolph Kampe などの指揮をとる側の多くは、新しい移民のコミュニティを悪魔扱いし、反移民政治的なゲイ政治とくっつき、現代ヨーロッパにおける人種的・宗教的多様性を拒絶することにおいて、強力でした。中には非常に問題含みのものがあり、例えば Maneo というグループのやり方です。パレードは、人種主義を推進するような団体との連携をまず拒否する必要があるでしょう。あるマイノリティ集団の支配を乗り越えるために他の集団の支配を強めることは、理解に苦しみます。特に、移民コミュニティの中にいるクィア、トランス、ゲイ、レズビアン、バイの人々の重要性を考えれば、更になおさら、でしょう。

AVIVA-Berlin: ベルリンに到着する前は、受賞を拒否する可能性があるとは思っていましたか?
Judith Butler: いいえ。行くのを楽しみにしていましたし、イベントそのものについても非常に熱心でした。ベルリンの、そしてドイツ・ベルギー・イギリス・オランダ・フランス・アメリカの多くの人々が受賞しないで欲しいと言ってきたときは、驚いたのです。政治的な分断がベルリンのコミュニティにはあり、それはこのパレード及び他の大きなゲイ・レズビアン組織によってより直接的かつ生産的に指摘されるべき問題であると思いました。

AVIVA-Berlin: ベルリンパレードはどのようにしてもっと政治的なものになれるでしょうか。また、ベルリンにおけるパレードが、このベルリンパレードと Kreuzberg で行われる the alternative CSD の2つに分かれていることについて、どう思いますか。
Judith Butler: 以前は、どちらにも行く人が結構いるんじゃないかと思っていました。ですが実際には人種主義や新しい移民コミュニティへの敵視に対して強い反対姿勢を取っていないベルリンパレードに行かない人が結構いるということまでは考えていなかったです。恐らく問題は「どのようにして政治的なものになれるか」ではなく、どのような政治をベルリンパレードが行って行くかということかと思います。もし主流のゲイ運動が血統の純粋さのヨーロッパ文化的規範に寄り添い続けるなら、あるいはもしマイノリティの公平な権利をオープンに肯定しないのであれば、マイノリティ集団出身だったり反人種主義の活動を自らの政治性の重要な一部であると認識している様々な活動家とのあいだには、対立が存在し続けることになるでしょう。

AVIVA-Berlin: Cristopher Street Day (訳者注:パレードの日) はあなたにとってどんなものですか。
Judith Butler: Christopher 通りというのはニューヨークの、有名なストーンウォールでの抵抗が数十年前に起きた場所ですよね。それは私にとっては、警察の暴力や嫌がらせに対しての抵抗が起きた場所の名前です。実際に街に出て、公的な空間への参入を申し立て、恐怖を乗り越え、誇りを口に出し、他人を傷つけないやりかたで快楽を得る権利を行使することは重要なことです。これらは重要な理想であり、壮麗な表現と楽しさは私も好きです。ですがもし現状で暴力に対抗する方法を真剣に自らに問うなら、新しい移民コミュニティがいかに右翼的な街頭暴力、警察による人種プロファイリングや嫌がらせに晒されているかを考えなければいけませんし、全てのマイノリティに対する嫌がらせや暴力に意義を唱えなければなりません。国家による不当な暴力や文化的な病理化のやり方に対して対抗することは、より一般的に言ってもクィア運動に欠かせないものであります。ですからもし街を同性愛者が闊歩する権利を求めて戦うというのであれば、反移民の暴力によって同様に危険にさらされているとても多くの人々の存在にまず目を向けなければいけません (英語ではこういう状況を “double jeopardy” と言います)。同性愛者が街を自由に歩く権利を求めて闘うのであれば、まず、その同性愛者のうちの相当数の人々が反移民的な暴力によっても危険に晒されていることを、自覚しなくてはなりません。これを英語では「二重の危機」と呼んでいます。 (tummygrrl さんによる訳) 次に、あるコミュニティに対しての不当な支配的暴力に対抗する際に、その他のコミュニティにおける不当な支配的暴力との関係性があるからといって目をつぶることはできないのだと考えるべきです。次に、一つのコミュニティーに対する不当な支配的暴力に異議を唱えるのであれば、他のコミュニティーに対する同じ暴力を見逃すわけにはいかない、という事を考えなくてはなりません。 (tummygrrl さんによる訳) このようにして、クィア運動は社会的平等に関与するべきであり、社会的平等を条件とした上での自由の追求をするべきです。これは個人の自由のみを気にして警察や国家の権力と寄り添うような、そして国家主義の新しい形やヨーロッパ純粋主義的かつ軍事主義的なものを含んだ新リバタリアニズムとは大きく異なります。

AVIVA-Berlin: あなたの哲学はしばしば大衆文化の一部であるとみなされます。実際特にドイツでは多くの人はあなたの『ジェンダー・トラブル』と「バトラー」という名前を、ジェンダーを自由に「選択」し「創造」することとつなげて考えています。しかしあなたの理論は実際には歓喜に満ちたようなものではないし、むしろメランコリーや、あらゆる差別に対抗する政治的関与について語っています。大衆偶像 (原文: “pop icon”) のように扱われていることについては、どのようにお考えですか。
Judith Butler: 大衆偶像であるかどうか、私自身はよく分かりません。そのような感想を読まないので。ただもし『ジェンダー・トラブル』の議論は大衆文化の領域に届いたのだとすれば、私は嬉しいです。学術的な活動がより大きな社会運動の一部となりうるのは、大衆的な形を取るときだけであるように感じます。あなたが言ったような誤解というのは非常に興味深いですし、文章そのものよりも読者の側の社会的なニーズについて教えてくれると思います。いずれにしても、私はこれまで、社会的な規範によってある程度みんな形作られてはいるけれど、必ずしもそれだけに決定されているわけではないということを示そうとしてきました。規範とともに、規範を通して、あるいは規範に反して私たちは奮闘するわけで、社会的権力のさなかのエージェンシーを理解しようとした私の本に、正にその理由で惹かれた人もいたのだろうと思います。

AVIVA-Berlin: ARTE-TV のドキュメンタリーで、レズビアンであることを意識したことで不安定になった、病理化やレズビアンのイメージ、社会的排除を恐れるようになったと言っていましたね。それから40年経ったいま、カミングアウトをしてオープンに非ヘテロ規範的に生きることはより容易になったと思いますか。
Judith Butler: はい、そう思います。そしてそれを感じることは喜ばしいし、驚きでもあります。しかし若者のときに社会運動が無い中でカミングアウトした私たちのような人にとっては、その時代の傷を未だに引きずっているのも事実です。もうこれ以上「アウト」することなど出来ないくらいにオープンになった今でも、未だに取り憑かれているような気持ちがあります。

AVIVA-Berlin:あなたの哲学によれば、ジェンダーに関係ないものも含め、アイデンティティは常に傷つきやすく、安定していないものですよね。多くの人にとってこれは理解ができない、あるいは不自然だったり恐ろしかったりするものですが、このような考えに対してあなたはどう反応しますか。
Judith Butler: ここで問題になっているのは、ある1つの考えではなく、複数かと思います。確かに多くの人はアイデンティティのカテゴリーの安定性を求めていますし、自分がどの性別なのかを知りたい、あるいはどのような性的指向を持っているのか知りたいと思っています。そしてそれが安定した、持続するような人生の一部であって欲しいと思っています。それはもちろん理解できることです。しかし、また他の人は、ある種の関係性を持てる、時間とともに変化できると思いたい人もいて、あるカテゴリーに属すると確信を持って言えるわけではなかったりします。安定性や所属というものがまっとうに生きるために必要な条件となっている人がいる一方で、むしろその安定性と所属が罠や牢獄、あるいは生きているという実感の終了であるかのように感じる人々もいるのです。ですから恐らくこれは非常に複雑な状況であります。更に、私たちに手の届くカテゴリーというもの自体も変化しており、歴史的です。そしてある性別を自認したと思っても、実際にはその性別に所属しているとは一般に思われないということを知るはめになったり、承認を得るためには社会的な争いに関与しなければならないということを知る羽目になったりします。そうでない場合は、むしろ明らかな承認無しに生きることそのものが自由のあり方であるようなこともあります。ですから恐らく私たちは、ジェンダー化・性的な人生のありかたの複雑さを理解するための、より広い考え方を発展させる必要があります。
 被傷性についてですが、「男の子」あるいは「女の子」と名付けられることにおいて、他人が私たちを記述するために使う言語に対して私たちが被傷性を持っていることは明らかであるように思います。他者に名付けられることによって私たちは世界に参入させられ、その一次的な被傷性は私たちが自らを名付ける力を得る前にそこにあるのです。他者による社会的呼びかけを逃れることはありうるのでしょうか。社会的な印付けを逃れることはあるのでしょうか。あるいは、選んだことのない印の痕跡とともに、あるいはそれに反してもがいているのでしょうか。

AVIVA-Berlin: 他のフェミニストとは異なり、あなたは女性の被傷性を「被害者」として話したりはせず、むしろ行動する可能性を強調しますよね。近代のフェミニズムにとってそれはどのような意味を持っているのでしょうか。
Judith Butler: 現代のフェミニズムは恐らく、国家の文脈の外側で政治的行動を起こせるのか、起こすべきなのか、あるいは社会に変化を起こすには国家的・法的な組織を必要としているのか、というところで分割している状態だと思います。私の初期の議論はジェンダーを実践し変化させるような文化的な行動・実践に注目していましたが、今と同様に当時もまた、結局拘束的なやり方で女性を定義してしまうような国家権力のあり方と手を組むことに危惧を持っていました。これはもちろん、「被害者」言説の1つの問題です。もちろん一方ではいつどのようにして人々が被害をうけるのかということを理解出来るようにならなければなりませんが、しかしそこで被害者と定義付けられる人は、どのようにして自ら行動出来るのでしょうか。被害者であると法的に認められてしまえば、抵抗・抗争・エージェンシーのありかたを理解するのは困難になります。フェミニズムはジェンダー的な暴力のあり方を記述し、反対しなければなりませんが、しかし同時に女性がどのように抵抗し、戦い、彼女たちの世界を変化させるのかを示す必要もあります。両方をやって、私たちが採用する戦略が果たして私たちのエージェンシーを拡張するのか否かを自らに問わなければなりません。

ユダヤ系の人生/出自

AVIVA-Berlin: あなたは宗教的実践をしているユダヤ人家族の元で育ち、ラビ (原文:”Rabbi”、訳者注:ユダヤ教系の指導者) の個人指導を14歳で受けています。 Bat Mitzvah (訳者注:ユダヤ系の少女の成人式、12〜13歳に行う) はやりましたか。また、ユダヤ系のアイデンティティは現在どのような意味を持っていますか。
Judith Butler: 当時は私の行っていた礼拝堂では女子に Bat Mitzvah をやっていなかったんです。もし出来るのならやっていたと思いますけれどね。近所の礼拝堂で授業を受け、ユダヤ系の倫理、ユダヤ人やその他マイノリティに対するナチの迫害の歴史などについて議論し、ユダヤ系の哲学を読み、実存主義的神学の伝統に非常に興味を持つようになりました。

AVIVA-Berlin: あなたの日々の生活、大学での仕事、言語の使用、フェミニストとしてあるいはクィア活動家として、またレズビアンの政治哲学者としての人生に、ユダヤ系であることはどのように影響を持っていますか。何か役割を担ってはいるのでしょうか。
Judith Butler: 大きな役割を担っていると確信していますが、それがどのように私に影響を与えるのか、全てを私自身が知ることは出来ないかもしれません。笑いや皮肉のセンスにおいては明らかに影響うけてますけれどね! でもまた同時に、精読の方法のいくつかは、ユダヤ教の聖書注釈の伝統から影響を受けているとは感じますし、神的なものの概念を定義あるいは描写しようとする努力にはあまり説得されません。宗教的な問題については私は恐らく不可知論者なのかと思います。しかし時々今でも礼拝堂に行きますし、音楽は素晴らしくて感動的だと感じますね。
 最近は、ユダヤ系の哲学と一般に言われるものの中にある資料を理解することで、国家暴力の批評、共生の理想、非ユダヤ人に対しての倫理的関係、そして記憶と復元の問題について考えようとしています。また、第二次世界大戦の前も後もユダヤ人の生活の重要な一部であった、シオニズムについての議論にも興味を持っています。ハンナ・アーレントの、特にパレスチナに連邦権威を設立しようとする彼女の努力や、ユダヤ系のナショナリズムを含めて全てのナショナリズムのあり方に反対する部分が私にとって重要であると分かってきました。

AVIVA-Berlin: ハマスとヒズボラを進歩的な社会運動であるとしたあなたの発言に関して、反ユダヤ的な立場を取ったと言われていますが、それについてはどう感じていますか (http://radicalarchives.org/2010/03/28/jbutler-on-hamas-hezbollah-israel-lobby/) 。個人的にというよりは、哲学者として腹立たしく思ってはいますか。
Judith Butler: 残念ながらそのクリップはカットされていて、私の反応の全てを示してはいません。私が言ったのは、ハマスやヒズボラのような団体は左翼運動であると記述されるべきだけれど、他のすべての左翼運動のように、各人がそれぞれどの団体を支持し、どの団体への支持を拒否するか選ばなければならないということでした。かれらは植民地主義や帝国主義に反対する点で「左翼」的ですが、かれらの戦略はわたしが容認できるものではありません。どちらの団体も私は支持していませんし、非暴力の政治に公的に関与している者として、支持することは不可能なことです。私の反応の編集が私の考えを歪曲して伝えようという努力であったことは明らかですし、その歪曲が出まわってしまったことはとても残念に思います。実際に言ったこと、これまでいつも考えていたことをきちんと伝える機会を頂けて感謝しています。

AVIVA-Berlin: ユダヤ系の倫理や伝統はあなたの哲学や、人生の理解に影響を及ぼしていますか。
Judith Butler: ええ。生命はつかの間の出来事で、だからこそいかなる方法を用いても守られなければならないと思います。

“Frames of war” について

AVIVA-Berlin: 非暴力が直面する問題は具体的にどんなものでしょう。また、自らの被傷性を認めることというのは何を意味するのでしょうか。
Judith Butler: 被傷性というのは「私のもの」にはなりえません。暴力的に行動することによって私が自分の屈強さを出そうとしても、必ず失敗します。人は被傷性を乗り越えることは、それがたとえ追求すべき理想に思われたとしても、出来ません。実際国家主義や軍事主義の多くにとってはそれが追求すべき理想だと思われているのですが。私の考えでは、不可能で破壊的な、そして軍事主義の国家主義的なあり方のいくつかを構造付けているような幻想を批判するための視座とは、被傷性の共有であると思います。

AVIVA-Berlin: Jill Stauffer とのインタビューにおいてあなたは「他者」を知るようになることは非暴力的に反応することという課題と関連していると言っていました。しかし他者を理解することはどの程度可能なのでしょうか。ある程度の不透明性を認めることは重要でしょうか。
Judith Butler: ええ。私たちは「知る」ということを「すべてを理解して、自分のものにする」 (原文: “mastery”) ことと同一視する考えから離れなければなりません。恐らく、他者の被傷性や他者の同等の権利を「認識する」ことについて考え、「あなたは誰?」という疑問を追求する方法はあると思います。この疑問は直接的な呼びかけであり、関係性の中に参入する方法の1つです。しかしそれは、知ることによって他者を所有しようとすることや、「大文字の他者」を知ることの出来ない場所に追いやることと同じではありません。

AVIVA-Berlin: この文脈においてメディアはどの程度重要ですか。 How could they communicate the ability to non-violent reactions? (訳者注:訳分かりません) どうしたらメディアは(人びとが)非暴力的に(メディアの報道に対して)反応できる能力を伝えられるのか? (katatemaru さんによる訳 ありがとう!) この文脈でメディアの重要性とはどのようなものでしょう。メディアはどのようにして非暴力的な反応ができるということを伝えられるのでしょうか。 (tummygrrl さんによる訳 ここはボクの判断ですが、 tummy さんの訳であれば原文の英文も理解可能だと思ってこちらを追加しました)
Judith Butler: ジャーナリズムやメディアは、どうして戦争があるのか、戦争が引き起こす破壊はどんなものなのか、どのような代替案が可能なのかについて人々が考えられるようなやりかたで戦争を表象する重い責任があると思います。つまり、戦争を語る枠組み自体が、国家主義や人種主義、そしてセンセーショナリズムに対抗しなければいけないということです。

AVIVA-Berlin: 暴力的にならずに攻撃性のある感覚を何とかする方法はありますでしょうか。あるいは、他者を傷つけずに、しかし破壊的に行動することは可能なのでしょうか。
Judith Butler: 攻撃性を持った歌や踊りはたくさんありますし、スポーツは多くがそうですよね。政治的観点については活発な議論や公開の論争が行われています。武道に参加する方法もありますよね。攻撃性を作り出す方法は、発話を通してだったり他の表現方法を通してにしても、傷つけずに出来る方法がたくさんあります。

AVIVA-Berlin: 例えばハマスやイスラム原理主義団体、あるいはイスラエルの政治が、クィアで非暴力的なやりかたで自らの攻撃性に対処できるとしたら、どのような方法を提案しますか。また、クィア政治はこの戦いにどのように参入できますか。
Judith Butler: パレスチナにおける正義の推進や「壁に反対するアナーキスト」に活発に参加しているクィア団体はイスラエルに結構います。例えばウェストバンクやベイルートにもクィア団体はあって、私が先程言ったような「ホモナショナリズム」のありかたを批判しようとしています。あまり知られていないということは残念なことです。

AVIVA-Berlin: あなたの理論についてですが、 “Frames of War” で、すべての人が主体として尊重されてはいないことが問題であるとおっしゃっていましたね。社会、政治、人間の生についての思想のほとんどがシステム理論を乗り越えている (訳者注:自信なし、原文: “most reflections on society, politics and human life passes by system theory”) 現代においても、主体の存在論を基盤とした政治理論は可能なのでしょうか。 今日、社会、政治、人間の生についての考察の多くがシステム理論を無視しているとしたら、主体の存在論に基づく政治理論は可能なのでしょうか? (katatemaru さんによる訳) 今日、社会や政治そして人間の生についての考察のほとんどがシステム理論としておこなわれている時、政治理論の基盤を主体の存在論に置くことはいまだに可能なのでしょうか? (tummygrrl さんによる訳 こちらも同じ理由で、追加します)
Judith Butler: そうですね。主体の存在を基盤にした政治は不可能です。主体の形成に先立つような社会的な関係性のあり方を考えなければなりません。それに、なぜある者は主体として生成され、またある者はそうならないのかを問う必要があります。ですから主体の存在論には賛同できません。もし承認の権利が平等に分配されるべきだと主張するのであれば、それは、主体を生成し維持している権力の様態について話しているのであり、主体の存在論について話しているのではないのです。

AVIVA-Berlin: あなたの理論において、ヘーゲルの主体論と彼の「承認 Anerkennung」の議論はどのように発展されていますか。また、あなたの哲学においてヘーゲルの理論がとても重要なのはどうしてでしょうか。
Judith Butler: 良い質問ですね! 承認が発生するときは、既に成立している言語と規範の中から生まれるのであり、承認される権利を主張することは時に新しい言語の様態や新しい社会慣習を創りだす必要を伴なう、ということを頭に置いておくことが重要だと思います。だからこそ、ある者は「承認可能」であり、またある者はそうでないのです。承認の不平等な分配について考えようとしているのですが、そうするとヘーゲルの承認論に権力理論を接近させることになります。またしかし同時に、承認は常に調停されているという彼の考えを更に進めたいとも思っています。ヘーゲルは、どうしてある者が承認可能とされ、またある者はそうでないのかを説明しませんでした。社会理論家には、承認請求と再分配請求をきっちり分けて考えている人がいるということを私は知っていますが、承認可能性そのものの不平等な分配は政治的に急務な問題であると提言したいです。恐らくころこそがベルリンパレードにおいても結局問題となった部分でしょう。私にとっては、自由を求める闘争は平等を求める闘争と結びついています。

AVIVA-Berlin: お時間割いて頂いてありがとうございました。いずれまたベルリンにいらっしゃった際には直接インタビューをさせて頂いて、また私たちの質問にお答え頂けたら幸いです。

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